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2020年2月23日
全能主に受け入れられた者

第Ⅱペテロ3:8


(起)ペテロの手紙に記されている二面性について学び、「全能主に受け入れられた者は、信仰

によって生きる」という歩みを学んで行きたいと思います。

(承)今日お読みした箇所に、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のよう

である」(第Ⅱペテロ3:8)とありますが、これこそまさに二面性です。普通に考えれば、

千年が一日であるわけがないし、一日が千年であるわけがありません。しかも、「千年は一日の

ようである」と言われるだけならまだしも、全能主はその逆も言われるので、「どっちが正しい

の?」ということになってしまいます。しかし、全能主にとっては両方とも正しいのです。

これが二面性です。

 さて、このペテロの手紙は、異邦人の地に離散して行ったユダヤ人クリスチャンに向けて書かれ

た手紙です。異邦人の地でユダヤ人がユダヤ人らしく生活して行くことは難しく、結果的には

異邦人と同じような生活に染まってしまったのです。そこで、ペテロは彼らに「異邦人と同じ

ように生きて来たのは、もう過ぎ去った時代で十分です。これからは、地上の残りの生涯を、

人間の欲望のためではなく、全能主の御心のために過ごすように」と勧めています(第Ⅰペテロ

4:2~3)。

 また、第Ⅰペテロ1:15には「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身

も、あらゆる振る舞いにおいて聖なる者とされなさい」と語っています。確かに、全能主の側から

見れば、「罪の滅びの中にあった者を、イエス・キリストを通して救ったのですから、もう昔の

生き方を()め、聖い生き方を始めなさい」と言いたくなるのは分かります。しかし、クリス

チャンになったとしても昔の生き方を()め、欲望の世界からおさらばして、「全能主の前に

正しい聖い生き方をして行きたい」と願っても、それをすることが出来ない罪の性質を持っている

のも現実です。すなわち、心の中に魔物が()んでいますから、この魔物を取り除いて頂ければ

ありがたいのですが、それは地上にいる限りは不可能です。特に異邦人である私たちは、元々律法

の下にはなく、「自分の欲望のままに歩んで来た者が、欲望を捨てなさい」と言われても、そんな

に簡単にできることではありません。また、キリストを信じたからと言って、急に聖い人間に

変わってしまった訳でもありません。確かに、信じた時の一時期に、自分の心の中の忌々(いまいま)

しい気持ちから解放されて、聖い心を与えられた経験はあります。しかし、それは信じた時の

一時の聖霊による経験です。それはすぐに消えてしまいました。だから、はっきり言って、私たち

にはペテロが語っているように、「全能主が聖であるから、あなた方も聖でありなさい」という

歩みを継続して行くことは難しい事です。たとえ全能主がそれを願っておられたとしても、それに

応えて行く力がありません。生まれたままの罪の性質は、依然そのままあるのですから。

すなわち、魔物を抱えている心は替えられていません。


(転) ところが、そのようにどうにもならない罪の性質があるからと言って、「じゃあ欲望の

ままに何をやってもいいのか」というと、そういうわけにはいきません。今日お読みした箇所に、

「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(第Ⅱペテロ3:8)と、

御言葉の中に二面性が示されているように、この御言葉を記された全能主自身が二面性を持って

おられ、その二面性で私たちに語られているのです。しかし、全能主にとっては、この相反する

二面性は、両方とも正しいのですから、この真理の二面性をクリスチャンは受け入れなければ

なりません。ところが、私たち人間は、常に一面で(とら)えようとしますので、この二面性で考え

ることは難しい事です。しかし、それでも
「イエス様によって救われたのだから、聖なる道に

歩んで行くべきだ」
という一面と、もう一面として、「救われても天に行くまでは、この肉の

性質は変わりませんので、罪人が聖なる者となるのは不可能だ」
という現実の矛盾を実現しなけれ

ばなりません。

 では、この二面性を受け留める方法は何かと言いますと、「全能主に受け入れられた人は、信仰

によって生きる」という土台に立つことです。「信仰によって生きる」とはどういうことかと申し

ますと、確かに私たちは罪人で何も出来ない者ですが、そういう者であるという土台の上で、キリ

ストの救いがあるが故に、
「私は私を強くして下さるキリストによって、どんなことでも出来るの

です」という世界を味わって行くということです。これが、「信仰によって生きる」という意味で

あり、私たちにとっての信仰の真髄
です。

(結)ペテロの手紙を読んで、「罪人が、このような生き方が出来るわけがない」と言いたく

なるのも無理のないことでしょう。しかし、だからといって、「もうダメだ」と諦めるのは、信仰

によることではありません。イエス・キリストの贖いの故に全能主に受け入れられた人たちは、

「一途に全能主に心を向け、全能主に信頼して、何でもやらせてください」というべきです。

なぜなら、全能主に出来ないことはないからですここで、私たちに純粋で素直な信仰があるなら

ば、罪人でも、全能主の全能の助けを味わって行くことも出来るということです。

これが、「信仰によって生きる」ということです。どうか、「全能主に受け入れられた者として、

この信仰によって生きる歩み」を始め出そうではありませんか。

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