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2020年2月9日
全能主に出来ないことはない

第Ⅰテモテ1:5、18


(起)第Ⅰテモテ1章5節、18節の御言葉を学び、「何があっても、『全能主は出来る』という

所に自分の意識を向け、その心で歩み出す」ということを学んで行きたいと思います。


(承)さて、私たちはイエス・キリストを信じる時、「モーセの律法では義とされることが

できなかった全てのことについて、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされるのです」

という恵みの観点から福音が語られ、信じる信仰へと導かれて行きました。しかし、信じた後に、

聖書を読み始めて行くと、聖書の中では「行い」というものに重点が置かれ、「行いをもって自分

たちの信じる心を表して行きなさい」と記されている箇所に出くわします。特にパウロの手紙は、

最初の方は、救われた者の立場、恵み、幸いについて書かれていますが、後半の勧めになると、

私たちに行いを求めるような書き方になっています。今日お読みした第Ⅰテモテの箇所には、

「きよい心と、正しい良心と、純真な信仰から出る愛を目標にして生きて行きなさい」と命令され

ており、私たちにとっては、かなり厳しい律法として感じてしまいます。すると、「自分には到底

『きよい心』なんて持てないし、元々『正しい良心』なんてほど遠く、初めは良心が痛んでいた

ことも、続けて行く内に良心の痛みも無くなってしまうような人間なのに、イエス様の救いを

信じたら、信じる前より厳しい行いを求められたら、やっていけない」と思ってしまうのです。

このように、聖書の中には、律法を肯定的に(とら)えている面と、否定的に捉えている面の二面性が

あり、その狭間でクリスチャンは揺れ動くのです。


(転) では、私たちはどちらに心を向けて生きて行けば良いのでしょうか。

それは、聖書に書かれている事柄は、両方とも正しいのですから、私たちは両方共を受け留めて、

生きて行かなければなりません。それは、「肉にあって生きている自分自身」を認めつつ、「信仰

によって生きて行く」という二面性があると言うことです。ガラテヤ書3:11を見ますと、

「全能主に受け入れられた人は、信仰によって生きるからです」とあります。また、ガラテヤ書

2:20には、「私が今、肉体にあって生きているのは、私のために御自身をささげられた全能主

の御子を信じ仰ぐことによって、生きているのです」とあります。

  
そこで、
確かに、私たちは肉を持って生きている者ですが、イエス・キリストの贖いによって、

私たちの罪が帳消しにされたという事実がありますから
私たちはイエス様によって救われた者と

して、たとえ「自分は弱い人間であり、自分のような者はダメだ」と思ったとしても、「全能主

を信頼して、信仰によって生きる」という方向に心を向けて、その生き方を具体的に始め出すべき

です。すなわち、「全能主には何でも出来る」という信じる心を持って、その心を行動で表して

いくのです。それは、今日お読みした第Ⅰテモテの御言葉を実現して行くことにもなります。

第Ⅰテモテ1:5には、「私のこの命令は、きよい心と正しい良心と、純真な信仰から出てくる

愛を目標としています」とあります。「正しい良心」とは、全能主を信頼するが故に、「何でも

やります」という方向に自分自身の心を向けて行くことです。そして、「純真な信仰」というの

は、自分自身は罪人であると認めた上で、遜って「全能主には何でも出来る。その全能主に信頼

して、どんなことも諦めずに、何でもやらせもらう」という心です。私たちは、この正しい良心

と、純真な信仰で、主を信じる心を持って戦い抜くのです。(第Ⅰテモテ1:18)すると、

それは信仰によって律法を全うすることになります。確かに、私たちの意志は弱く、自分に出来る

かどうか不安に思うこともあるでしょう。それでも、
全能主に受け入れられた人は、全能主を

信じるが故に、今まで出来ないと思っていたことにも挑戦する
のです。そして、何でもお出来に

なる全能主によって、今まで出来ないと思っていた行いが、一つ一つ出来るようになって行く

なら、なんと幸いでしょうか。私たちには、それを積み重ねて行くチャンスが与えられています。

このチャンスを放棄してはいけません。悪魔は、「お前は弱い人間だから、やっても無駄だ」と

言って、いつも私たちの足を引っ張ります。しかし、そんな悪魔の訴えに惑わされてはいけま

せん。たとえ悪魔に足を引っ張られたとしても、それで全能主に信頼して行くことを諦めるのは

間違っています。そういう自分自身を抱えながらも、信じるが故に全能主の方に自分自身の心を

向けて行くことが正しいのです。私たちは、悪魔を信じて救われたのではなく、イエス様を信じて

救われたのですから、「全能主に心を向けるのは当たり前」と言って、悪魔を退けましょう。

私たちにはその強さが必要です。

(結)どうか、
何があっても、「全能主には出来る」という信仰を働かせ、その所に意識を向け

て歩み出しましょう。
そして、全能主の御心であることが分かったら、後先考えずにやって行く

のです。やれば絶対に何とかなります。なぜなら、「全能主に出来ないことはない」からです。

どうか、その「全能主の全能の力を味わって行く教会」として始め出そうではありませんか。


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