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2020年12月27日
私のたましいよ。目をさませ。

詩篇57篇8節


(起)今朝は、詩篇57篇8節の「私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目を

さませ。私は暁を呼びさましたい」という御言葉から、新年になってから目を覚ますのではなく、

いま目を覚まし、新たな心で新年を始め 出したいと思います。


(承)さて、1年の()(くく)りにこのようなメッセージを語るのは、私たちが今までメッセージ

を聞いても、相変わらず、心を砕いて来なかったからです。それは、語られるメッセージを頭で

聞き、心で実践する決心をして来なかったからです。私たちは、子供の頃から心で聞かず、頭で

聞く癖がついています。それは言葉を替えると「ただ表面だけ良い子ぶる」ということです。

どういうことかと言いますと、私たちの教育は、子供の頃から「良い子になること」を目標にして

育てられて来ました。しかし、本気で良い子になることを求められたら、何があっても反抗せず、

素直に聞いて反発しない子にならなければなりません。それは、どんなに頑張っても魔物が心に

住んでいる私たちにとっては、非常に困難なことです。だから、表面だけ良い子振って行くこと

になります。なぜなら、心の中まで良い子になるのは奴隷になることですから、そこまではでき

ないことです。私たちはこれまで、ひたすら自由な教育の中で育って来た者です。だから、自己

主張の教育を受けて来た者に出来る訳がありません。しかしながら、この世ではやはり良い子振ら

ないと受け入れてもらえません。だから、人前では上手に良い子振って、親や学校の先生を騙して

来たのです。しかし、それは全能主には通用しません。私たちには表面的な善はあっても、心の

中は生まれながらに醜い反抗心が染みついており、まさに白く塗った墓です。だから、自分自身が

本当に良い子か?と問われたら、決して良い子ではありません。それが分かったら、私たちは聖書

の基準に会わせることはお手上げですので、クリスチャンが義人であるかのように良い子振ること

は、どんなに苦しいことでしょう。それは、生まれながらの罪の心を棚上げにして行くことです。

だから、私たちは本来自分の魂が腐っていることを認め、全能主の前にお手上げしなければなり

ません。
それに気づかなければ、私たちは全ての物事に関して、自分の身勝手な基準で自分を正当

化し、どこまでも「自分が正しい」と考えて、他人を悪者扱いしていくことになります。
それを

私たちの命の主である全能主の前にやれば、私たちの魂は、キリストによって贖われたにも(かか)わら

ず、霊は死ぬしかありません。ですから、「私のたましいよ。目をさませ。」という御言葉は、

この事に対して「目をさませ」ということです。即ち、
生まれながらに罪人だということを

思い知り、全能主の前にお手上げしろ
」ということです。


(転)このことが分かったなら、私たちの生き方は当然変わって来る筈です。どのように変わる

かと言いますと、自分中心から、全能主中心に考えていくようになります。何故なら、罪人の自分

はお手上げですから、自分に懸けていくことは出来ません。私たちはこんな手の施しようのない

者ですが、全能主は私たちの為に、キリストを罪の身代わりに立てて下さり、罪の贖いをして

下さいました。ですから、自分に懸けていくことは出来ませんが、全能主に懸けていくことは出来

ます。私たちは、自分なんて信用できません。だから、到底自分の義を持って受け入れられること

は出来ません。しかし、全能主は、心底罪人であることを認め、「砕かれた悔いし心を持った者

を蔑まない」と言って下さり、「その心でわたしに従って来なさい」と言って下さるのです。

それが分かったら、私たちは「全能主に信頼し、全能主に懸けて行きたい」という、
全能主に

熱中する心
が湧き起こってくる筈です。私たちの教会は、そういう心を持った一人一人が、全能主

を中心に熱中して従って行く塊になって行くべきです。その塊は、少ない人数でも良いのです。

たとえ少ない人数でも、信じる心を持って熱中して行く者を全能主が受け止めて下さらない訳が

ありません。そういう者には、全能主はいつも側にいて助けて下さいます。しかし、何でもかん

でも自分の思い通りに助けてもらえると思ったら大間違いです。全能主はあえて御手を動かされ

ないこともあります。それでも私たちは信じて行くのです。そうすれば、私たちの心は豊かに

なり、安らぎがやって来ます。
信じるか信じないかは確かに私たち次第です。でも、私たちは

信じる方を選び、信じると決めた者です。
ならば、最後まで信じようではありませんか。私たち

が信頼するお方は、私たちの命を造って下さった本物の命の全能主です。そういうお方がいらっ

しゃることが分かったのですから、たとえ自分が泥を被っても、また自分の思い通りにならなく

ても、私たちは疑わずにただ信じ通して行く一心を通して行くのです。そのように全能主に熱中

して行けば、私たちは全能主から特別に可愛がられる者となります。すなわち、
全能主に偏愛さ

れる者となるのです。



(結)こういうわけで、悪魔に騙された中で生きるのか、或いは全能主の偏愛の中で生きるのか、

それは私たち 次第です。どうか、私たちは全能主に熱中し、全能主の偏愛を受けて生きる道を

求めて行こうではありませんか。そして、暁を呼び覚まそうじゃありませんか。暁はイエス・

キリストです。
私たちの教会に「聖霊の油を注ぎ続けたい」という願いをはっきりと持っておら

れる方
です。イエス様の心を呼び覚ましましょう。それが、来年度の私たちの教会の新たな生き方

です。 

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