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2020年12月20日

(へりくだ)り、悔いし砕かれた心を持って

第Ⅰテサロニケ4:1~8



(起)
第Ⅰテサロニケ4章の御言葉から、先週に引き続き、「遜り、悔いし砕かれた心を持って、

イエス・キリストの贖いに懸けて行くこと」を学んで行きたいと思います。



(承)さて、3節を見ますと、「全能主の御心は、あなた方が聖潔に至ることです」とあり

ます。それは、7節を見て行きますと、「全能主は私たちを汚れのためではなく、聖潔の中に召し

たからです」とあります。私たちが、信じたばかりの頃は、このような聖書の箇所を読むと、

「自分も信じたのだから、信じた以上はこのような聖い人間にされるはずだ」という期待感を抱き

ました。ところが、
何年経っても、生まれながらの罪深い自分自身は変わらず、今現在も罪は

全く消えていません。
ということは、私たちはイエス様の贖いを信じたからといって、この地上

で聖い人間になった訳ではありません。すると、私たちは全能主の御心の中に歩んでいないこと

になり、8節には、「これらの警告を拒むことは、全能主を拒むことです」ともありますので、

これを読めば、たとえクリスチャンになったといえども、誰一人「自分は御国に行けます」と確信

を持って言える人はいないということです。



(転)では、クリスチャンは確信のない中で信じていくのでしょうか? すると、クリスチャン

の歩みは、どのように 生きて行けば良いのでしょうか。今、聖書から教えられていることは、

「全能主は、砕かれた悔いし心を軽しめられない」ということです。しかし、はっきり言って、

それが御国に繋がるとは聖書に書いてありません。でも、これ以外に全能主に繋がる道はあり

ませんので、最低限、私たちはこの地上にあって、全能主を信頼し、遜って全能主に従って行く

姿勢を貫いて行くべきなのです。聖書には、「イエス・キリストを信じる者は誰でも永遠の命を

持つ」という面と、「行いのない信仰は死んだものだ」という二面性が記されており、全能主は

あえてこの両面を提示されています。ということは、全能主は私たちが生きている間に、完全な

安心感を与えようとはしておられないということです。だから、
私たちは聖書を読んで、「自分

は天に行ける」と無理矢理思い込む必要はありません。
確かに、誰だって信じたのなら信じたこと

の平安を得たいし、天国に行ける安心感を持ちたいものです。しかし、自分は罪人だという事実

を曲げることはできませんし、罪の心を誤魔化すこともできません。もしかしたら、私たちが

信仰の苦難を通っていく時、御霊様が励ましと安心感を与えて下さるかも知れません。しかし、

それもすべては全能主の手の中にあることです。自分自身で無理矢理思い込むものではありま

せん。しかし、一つだけ天に行けるはっきりした道があります。それは、黙示録に中に出てくる

明確な御言葉です。それは、黙示録2章7節に「勝利を得る者は、パラダイスの中にある命の木

の実を食べることを許そう」とあります。すなわち、「聖なる都を 受け継ぐ」ということです。

「勝利を得る者」とは、患難時代で自分自身の命を差し出した殉教者のことです。これは黙示録

にはっきりと書いてありますので、これから患難時代に入って行く私たちにとって、もしその殉教

の道を通るならば、地上にいる間に「自分は天に繋がる」という確認を持つことが出来ます。

そのような生涯を送れるということは感謝なことです。だから、どうか信仰を全うして下さい。

そして、そのように自分の信仰を走り通したならば、ステパノのように、後は「この霊を御手に

委ねます」と、言えば良いでしょう。どこまで行っても、イエス様の贖いは事実であり、これは

間違いないことですから、どこまでも悔いし砕かれた心を持って、イエス様の贖いに懸けて

行く中で、全能主に従い通して行くことが私たちにとって全てです。



(結)私たちは、たとえ聖霊のバプテスマを受けたとしても、「自分はもう聖くなったから、

天の御国を受け継がせて頂ける」という確信を持つことはできません。幾らでも、聖霊のバプテ

スマを受けた方々で、背教した方々がいます。ですから、
生涯遜って、全能主に従い通す事が

全て
です。先程も申し上げたように、患難時代の殉教者は、「勝利を得る者とされる」という

メッセージは間違いありません
ので、どうか最後まで正気で信じて行って下さい。(第Ⅰテサ

ロニケ5:8)そして、
患難時代で殉教し、自分の走るべき行程を走り尽くしたなら、あとは

全能主にお任せすれば良い
のです。天に上げていただけるかどうか、それは全能主の御心次第

です。どこまで行っても、イエス様の贖いは事実ですから、遜り、悔いし砕かれた心を持って、

イエス・キリストの贖いに懸けて 行こうではありませんか。

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