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2020年11月22日

信仰の一本道に()ける

使徒の働き24:10~23


(起)「大胆に全能主に信頼して行く信仰の一本道に懸け、純な信仰を通して行くこと」を学んで

行きたいと思います。



(承)
さて、使徒行伝を読んでいると、前半の部分は読んでいて霊が燃えてきますが、パウロが

エルサレムに戻ってからの後半の部分は、何となくモヤモヤ感を覚え、霊的な喜びが去ってしまい

ます。その理由は何かと申しますと、パウロがエルサレムに戻ってからの行動と発言が、自分自身

の立場を説明する弁明と釈明ばかりで、「イエスがキリストである」という証しが一つもされて

いないからです。24:10にある「釈明」という言葉を調べていくと、「誤解や非難などに

対して事情を説明して了解を求めること」とあります。また、「弁明」という言葉は、「自分の

立場や事情を申し述べること」とあります。まさに、エルサレムに来てからのパウロは、終始

自分を擁護する言葉を語っています。これは、まさに釈明と弁明です。また、22章を見ますと、

「私はローマ市民だ」と言って、鞭打ちの刑から逃れている場面もあります。確かに、ローマ市民

として、「取り調べを受ける前に、鞭を打たれるべきではない」と主張することは、決して間違い

ではありません。とはいえ、一生懸命自分の立場を守る弁解をして、命を永らえようとする姿勢

(うかが)い知れるのです。しかし、パウロは「エルサレムに帰るのは、死も覚悟していること

だ」と言って帰った筈ですが、その気持ちが萎えたように受け取られるからです。もし、「自分は

死をも覚悟している」と言っていたのでしたら、大胆にユダヤ人たちの前ではっきりと「イエス

が、キリストです」と証しすれば良かったのです。もしそうであったなら、「よくぞ、恐れず

証しをされた。」と、私たちも感動しながら読むことができた筈です。そして、そういう中で

最終的にローマに行くことができたなら、「全能主ってすごい」と言って、全能主の御名を崇め

たことでしょう。ところが、はっきり言って、この後半の内容では、嵐の中で救われたパウロの

証しに「全能主が働かれたのだな」という感動は受けましたが、エルサレムでのパウロには、

それがないのです。だから、読んでいてモヤモヤしたのです。



(転)しかしながら、ここまではっきり言ってしまうと、聖書を否定することになります。

だから、クリスチャンであれば聖書を否定する人はいませんから、全部肯定的に受け留めて行く

のが一般的な聖書の解釈です。でも今回、このようにはっきりとメッセージするのは、私たちが

計算づくで、自分を弁解して自分を守る方向に向かわず、
どこまでも全能主に信頼して行く純な

信仰が正しいということを明らかにしたい為です。
すなわち、私たちがこれから患難時代に入っ

て行く中で、パウロのように弁明したり釈明したりして、自分自身を守って行く技を身に付けれ

ば、背教してしまう可能性があるからです。しかし、信仰を守り通すためには、自分の命を主に

委ねて、「死んでも良い」という心をはっきり持たないと、悪魔の策略にはまってしまうのです。

何故ここまで大胆に言えるかと申しますと、私たちは罪人であり、全能主はその罪人を救って

下さったという事実がありますから、「
この地上の命は、キリストを証しするために残された

命だけの存在だ
」ということです。全能主は、罪人であることを認めた者に対しては、「その心

を軽んじない」と言って、その者をキリストの故に受け入れ、パラダイスに迎え入れて下さるの

です。だから、私たちはこの全能主にどこまでも信頼して行けば良いのです。
しかし、実際問題、

「全能主に信頼して行く」というのは非常に抽象的ですから、全能主に信頼できる時は信頼し

て行くが、信頼できないと思う時には、自分の考えでやって行く、というのが一般的な信仰の

姿勢です。
しかし、私たちはそうではなく、何もかも全て全能主に信頼し、お任せするのです。

すなわち、この地上での生活も命も全能主にお委ねするということです。
だからといって、仕事

をしなくても良いというわけではありません。「働かざる者、食うべからず」と聖書にも書いて

あるとおり、私たちは当然働くべきです。そして、その働く場所、働く環境を与えて下さるのも

全能主であり、決して自分自身の努力で、自分の思い通りにできるわけではありません。だから、

私たちは全能主に全てを委ね、その中で生きて行くべきです。もし、「お前はもうしばらく、

地上に留まり証ししなさい」と言われたら、時期が来るまで、現在置かれている場所で一生懸命

働けば良いのです。


(結)私たちの人生は、自分の計算通り、思惑通りには行きません。全て全能主の裏付けによる

のです。ならば、全てを全能主にお委ねし、大胆に全能主に信頼して行く信仰の一本道に懸け、

純な信仰を通して行くこと
を始め出しましょう。そして、この純な信仰が通ることを味わって

行こうではありませんか。

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