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2020年11月15日

全能主に聞き、頼り切って、全能主の為に生きて行く

使徒の働き16:20~34


(起)使徒行伝16章の看守の救いの記事から、「何でも全能主に聞き、全能主に頼り切って、

全能主の為に生きて行く
」という新しい生き方を学んで行きたいと思います。


(承)さて、パウロは、女奴隷の占いの霊を追い出したことで捕えられ、獄に入れられてしまい

ました。ところが、突然激しい地震が起こり、獄の扉は全部()き、鎖も外れてしまったのです。

すると看守は、獄の扉が全部開いているのを見て、囚人が逃げ出したと思い、自殺しようとしま

した。当時は、もし看守が囚人を見張ることが出来なかった場合、それは任務に対する不忠(ふちゅう)行為

と見なされ、死刑を宣告される時代だったからです。しかし、パウロがまだその場にいることが

分かると、看守は「先生方!救われるためには、何をしなければなりませんか」とひれ伏しま

した。看守は「何とか死刑から救われる道を願い」パウロとシラスに助けを求めたのです。

ところが、パウロの答えは、「こうすれば助かる」とか、「百人隊長に説明するから」とか、

そういう返答ではなく、ただ「主イエス・キリストを信じなさい」と言ったのです。その答えは、

「救われるために何をしなければなりませんか?」と聞いた看守にとっては、実に見当違いな(まと)(はず)

答えでした。彼は命乞いを願ったのですが、「ただ信じなさい」と言われ、不満足な思いで

あったでしょう。しかし、この見当違いの答えこそ、全ての問題の完全な答えでした。なぜなら、

全ての問題に解決を与えることの出来るお方は、キリストしかおられないからです。結果的に

看守は、その後一つも咎められることなく、パウロ達を釈放するように命じられ、事なきを得た

のです。こんな解決方法を与えることの出来るお方は、全能主しかおられません。この経験は

私たちも味わっています。
全能主は、キリストを通して、人間の全ての問題を解決して下さった

方です
。福音を聞いた看守は、「この救いは自分に必要だ」という事が分かり、そのまま純粋な

心で信じ
、家族一同もバプテスマを受けました。これは、私たちも味わった救いです。



(転) これと同じように、私たちも最初はそのような、純粋な心で信じたはずでした。しかし、

段々と御利益を求め始めるようになって行きました。そして「全能主を信じた者には、全能主の

恩恵があるはずだ」という思いが心を占め、当然のように全能主から特別な助けがあると期待

して、それを求めるようになって行ったのです。このように救いを御利益主義に解釈すると、

自分勝手な信じ方になり、「当たり前のように全能主が私たちの求めを聞いて下さるはずだ」と

思い、その願い通り聞いて下さらないと、信じる事より不満が先行するようになってしまいまし

た。ですから、その信仰は、この世の新興宗教と同じように、御利益を当然のように求める感覚

がクリスチャンにも入って行ったのです。そうすると、「主イエスを信じる」というだけでは

物足りなくなり、信じたのだから、「信じた者として具体的な幸いを味わいたい、助けてほしい」

という所に重点が置かれ、「願いを聞いて貰うためには、何をしなければなりませんか」という

問いかけに戻ってしまったのです。その原因はどこにあるのでしょうか。それは、自分が罪人だ

ということを、心底から認め切れていなかったからです。自分の罪を思い知らされないと、人間

は自分に対しては甘く、簡単に棚上げしてしまいます。すなわち、「人間は、根っからの罪人で

あっても、常に褒められたい」という欲求がありますので、私たちは自分自身が徹底的に追い

込まれ、自分はどうにもならない罪人だと言うことを、思い知らされなければなりません。それ

を御霊様は機会ある(たび)(ごと)に教えようとしておられたのですが、私たちの偽善が、それを打ち

消して、惨めな自分を思い知ることから逃避して来たのです。それは、自分のダメさ加減は自分が

一番よく分かっていますので、それ以上追い込まれたくないと思ったからです。

しかし、それでも本当に自分が追い込まれた時に、初めて「自分はまさに罪人にすぎない」と

分かって来るのです。
それが分かったら、そこに留まっているのが嫌になります。すると、そこ

から離れたくなります。
では、そこから離れてどこに行くのでしょうか? それは、全能主の所で

す。「全能主だけが、悔いし砕かれた心を(かろ)しめない」と言って下さるお方だからです。
そこで、

私たちは初めて新しい生き方を始め出すのです。新しい生き方とは、私たちが、まず「自分の力

ではどうにもなりません」と(あきら)めて、全能主が、「わたしの所に来い。そして、わたしの考えに

沿って、今までとは違う新しい生き方を始め出しなさい」と言われる生き方です。これが、聖書

に書いてあることです。旧約と新約のメッセージのポイントは、全てこの一点に集約されます。



(結)私たちは、自分の力で全能主に(とが)められない生活を送ろうとしても出来ません。

それなら、私たちの生きる場所は、自分の努力の世界にはありませんので、むしろ「もうどうに

もなりません」と降参した上で、「その砕かれた心を軽んじない」と言って下さる全能主の所へ

行くのです。私たちの生きる余地はそこしかありません。即ち、罪人は全能主の(ふところ)でしか

生きて行く場所がないのです。ならば、
「何が何でも全能主の言われることを聞き、全能主に

頼り切って、全能主の為に何でもやらせて下さい。」
と、生きて行くべきです。全能主は、その

ようにして近づいて来る者には、惜しみなく恵みを与え、力を与えて御自身の働きをさせて下さる

のです。どうか、この全能主のお考えに沿って、罪人である自分を心底認めて、新たな生き方を

始めさせて頂こうではありませんか。

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