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2020年11月8日
全能主を意識して物事を慎重に判断する、
キリストにある新しい生き方


使徒の働き10:10~16

(起) 使徒行伝10章のコルネリオの記事から、「物事の判断を、常に全能主を意識して慎重に

判断し
、イエス・キリストにあって新しい生き方
を始め出す」ことを学んで行きたいと思います。

(承) さて、ペテロとコルネリオの件を通して、学びのポイントが二つあります。一つ目は、

物事の判断を、自分の勘で 行うのではなく、全能主にあって慎重に判断して行くことです。

どういうことかと申しますと、ペテロは、ある日の昼下がりに、夢心地になって幻を見ました。

その幻は自分が呪われているのではないかと思うような夢でした。なぜなら、
「汚れた動物を

ほふって食べなさい」と言う声がしたからです
。しかも、同じ幻を三度も見たのです。

この内容は、ユダヤ人にとっては、あってはならないことです。それは
「汚れた動物を食べては

ならない」というのは、ユダヤ人にとっては、絶対的な律法の掟であったからです。
ですから、

この幻は「悪霊から来ている夢ではないか?」と考えたのです。しかし、
その幻の最後には、

「全能主が清めた物を、汚れているなどと言ってはならない」という言葉も続けて語られました。


すると、もしその言葉が本当に全能主から出ている言葉であるならば、一概に「これは悪霊から

来た呪わしい夢だ」と決め付けることはできません。
即ち、両面性が考えられる内容でした。

そこで、ペテロは「どちらが正しいのだろうか」と、思い巡らしている時に、
御霊の語りかけに

よって「三人の人たちがあなたを尋ねて来ます。何も疑わないで、彼らと一緒に出掛けて行きな

さい」という声を聞いたのです
。そこでペテロは、この摂理(全能主が人の利益を思い図って、

世のこと全てを導き治めること。広辞苑より。)
に従い、翌日、彼らと一緒に出掛けて行ったの

です。そして、コルネリオの家に行った時、話のすべてが見えて来ました。ペテロは「これで

はっきり分りました」と、事の成り行きを理解し悟りました。それは、全能主が異邦人にも、

救いの門を開かれたことを知ったからです。どういうことかと申しますと、ペテロは幻を見た

時には、その意味が全く理解できませんでしたが、
自分の判断を固守せず、必ず事の真意を全能主

は明らかにして下さると、全能主を信頼していました。
だから、物事を一面で短絡(たんらく)的に理解

しようとせず、慎重に成り行きを見て行こうとしたのです。そこで、全能主の真意がはっきり

見えて来ました。
それは、たとえ御言葉に反することであっても、後で必ず分かるということ

です。
これは、私たちにも言えることです。これから患難時代の中に入って行く中で、いろいろな

しるしや不思議を 見るでしょう。しるしや不思議は、全能主がされるのは当然ですが、666も

同じことをします。だから、その出来事を見て、全能主から来ているものか、悪霊から来ている

ものかを、判断に迷うことがよくあることと思います。そんな時には、すぐに答えを出そうとする

のではなく、事の成り行きを正しく見極めて行く必要があります。事の成り行きを慎重に見て

いく時、その様子を見ながら、「これは全能主からではない」とはっきり分かったら、その時には

離れれば良いのです。自分の勘で短慮(たんりょ)に判断しようとすると、判断を誤ります。私たち

はそこに気を付けて行く訓練が必要です。


(転) そして、もう1つ学びたい点は、「私たち異邦人にも救いが与えられた」ということ

です。28節を見て行きますと、「全能主は、どんな人間にも清くないとか、汚れているとか

言ってはならないと、私にお示しになりました」とあります。これは私たちに語られている言葉

です。私たち異邦人は、初めから罪人で全能主からは遠ざけられていた者です。しかし、そんな

罪人をイエス様の十字架の贖いを通して清めて下さいました。ですから、全能主は、私たちの罪の

債務証書を十字架に釘付けにし、無効にして下さったのです。すなわち、私たちの罪の債務は破棄

され、全能主はイエス・キリストによって私たちを清め、罪から解放して下さったのです(アオリ

スト形)。それは、具体的にどういうことかと申しますと、詩篇103篇10節にあるように、

「全能主は私たちを、罪に従って扱うことをせず、咎に従って報いることもなさらない」という

ことです。すなわち、
罪赦された罪人
は、たとえ罪を犯すことがあっても、全能主に付き従って

行っていいのです。もちろん、罪を悔いて遜って行くのは当然のことです。決して棚上げしては

いけません。しかし、全能主はイエス様の十字架の贖いを通して、罪人の私たちをこのように見て

下さっているのですから、「罪人でも、全能主をトコトン信頼して、従って行っていいのです。」

これが全能主のお心です。


(結) ですから、私たちはいつまでも古い罪人の中に留まっていてはいけません。確かに、

私たちはイエス様を信じても、罪人であることには変わりありません。ですから、「いつ、どこで

自分が罪の虜になってしまうか分からない」という怖さがあります。だからこそ、常に全能主に

遜った心を持って行くべきです。ついつい、罪を犯す後ろめたさがありますから、ある程度の距離

感を保っておこうとします。しかし、それは間違っています。
私たちが全能主に近付いて、「何が

何でも全能主のために使って下さい。全能主がこうしてくれと言われたら、何でもやります」

という心を持って行くなら、全能主も喜んで下さいます。そして、全能主もいろいろなしるしや

不思議を起こしてくださいます。それが私たちに与えられた新しい生き方です。どうか、イエス・

キリストにあって、全能主の(そば)にいつもいて、慎重に判断し、新しい生き方を大胆に始め

出して行きましょう。

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