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2020年11月1日

人を無視する(かたく)なな心を砕いて、   
      どこまでも全能主を信頼していく


使徒の働き9:10~19


(起)使徒9章10節~19節でパウロのために祈ったダマスコのアナニヤから、「人を無視して

自分の主張を通そうとする(かたく)なな心を砕き、どこまでも全能主を信頼していくこと」を学んで行き

たいと思います。


(承)さて、ダマスコにアナニヤという一人の弟子がいました。ある日、彼は幻の中で「サウロ

という人を探し出して、彼に手を置いて祈ってやり、目が見えるようにしてあげなさい」という

主の声を聞きました。しかし、アナニヤは、サウロという人物は、男も女も(かた)(ぱし)から縛り

上げてエルサレムに引いて行こうとする迫害者で、クリスチャンを殺すことを、意に(かい)さない

人物だと聞いていました。ですから、主に「何故そんな人のために祈らなければなりませんか。

私は彼の所に行きたくありません」と言ったのです。しかし、これは人ならば、誰しもが抱く思い

です。なぜなら、サウロという人物は、クリスチャンの敵で「情け容赦のない迫害者」でしたから、

アナニヤがそのように考えるのは当然のことでしょう。ところが、それでも主は「行きなさい。

あの人は、わたしの選びの器です。彼が、わたしの名のために、どんなに苦しまなければなら

ないかを、わたしは彼に知らせるつもりです」と言われたのです。そこで、
アナニヤは自分の

考えから離れ、主の言葉を素直に受け留めて、出掛けて行ったのです。
これは、なかなかできる

ことではありません。たとえイエス様からそのように言われたとしても、もしかしたら、サウロ

に同行していた人たちに捕えられるかもしれません。そう考えると、アナニヤには、大きな恐れ

があったことでしょう。しかし、アナニヤは主の言葉を無視しませんでした。
「はい、分かり

ました。主が言われるならその通りにします」と言って、出掛けて行ったのです。



(転)では、私たちは、「主が言われるならその通りにします」と言ったアナニヤのような生き方

をしているでしょうか。いいえ。むしろ、
私たちは自分にとって都合の良いことは聞き入れ、

都合の悪いことは聞き流して、無視するということを当たり前のように自分の権利としてやっ

来ました。
例えば、私たちはこれまでの30年間、牧師から同じメッセージを聞き続けて来ま

した。そのメッセージの内容は、「私たちは一つ二つ、罪を犯したから罪人なのではなく、生まれ

ながらに罪の中に()かっていた者で、主の前に悔いし砕かれた心を持って従うべきだ」という

ことを学んできました。ところが、そのことについて、いくら牧師から語られても、そのように

は心を動かしませんでした。なぜなら、「それはどうにもならない罪人の性質を背負っている

から、しょうがない」と思い、
その罪を無視するしかないと思っていたからです。そして、その

代わりに、僅かばかりの自分の義を表に出し「自分は、これからこうします、ああします」と

表明することによって、受け入れてもらおうとして来たのです。しかし、「こうします、ああし

ます」と言っても、私たちが本当にその通りに出来た試しがありません。もしそれが出来るなら、

イエス様が十字架にかかられて、贖いをする必要はありませんでした。それなのに、私たちは

「こうします、ああします」と言い続けてきたのです。そんな律法をいくら自分に課せても、

律法を守り切れない罪人です。なのに、「反省して、こうします」と言うことが正しいと思わ

されていたのです。しかし、何度も同じことを繰り返し、失敗して叱られてきました。という

ことは、私たちはどう転んでも100%罪人だということです。それは、自分自身が嫌という

ほど知らされてきた現実です。それなのに、子供の頃から今に至るまで、「こうします、ああ

します」と、ずっと無駄な反省をし続けて来たのは何故でしょうか。それは、自分が罪人だという

ことを認めるのを嫌っていたからです。
すなわち、自分の罪を無視して来たのです。
自分の罪

を無視しているということは、それを指摘している全能主や牧師を無視しているということです。

この世の中でさえ、上司の言うことを2、3回無視したら嫌われ、退けられます。その者は

「無視(かご)」の中に入れられてしまいます。すなわち、「この人にお願いしても言うとおりに

してくれないから、もう仕事を任せない」という仕打ちを受けるのです。そして、上司は「その

人物を完全に窓際に置いて無視します。」同じように、私たちも全能主からそのように扱われ

てもおかしくはありません。



(結)私たちは、「今まで牧師を無視し、全能主を無視してきた罪人だ」という現実を認めて、

アナニヤのように従う者とならなければなりません。全能主は、ご自分の言葉を無視せずに、

従う者を用いたいのです。たとえば、主から「選びの器」と言われたパウロは、「彼がわたしの

名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に知らせるつもりです」と言わ

れた通り、その後パウロは、まさに苦しみの中を通って行きました。彼の伝道の働きは決して

楽な道ではありませんでした。しかし、確かに地上では様々な苦しみや不都合があったかもしれ

ませんが、それでも彼は最後まで従い通しました。すなわち、全能主の言葉を無視せずに従い

通したのです。
無視しなかった者に対しては、全能主からの信頼が増していきます。そして、

その者は天で大いなる幸いを受けるのです。どうか、私たちも自分が嫌だからと言って、人を

無視して自分の主張を通そうとする頑なな心を砕き、どこまでも全能主を信頼して行く道を選択

して行きましょう。そうすれば全能主から信頼されて、用いられていく者とされるでしょう。

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