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2020年10月4日

綺麗事(きれいごと)の信仰に踏み出す

マタイの福音書19:16~22


(起)マタイ19章16~22節の金持ちの青年と26節の「人にはできなくても、全能主には

できるのです」という土台に立って、どこまでも全能主に信頼し、綺麗事の信仰に踏み出すことを

学んで行きたいと思います。

(承)さて、一人の青年がイエス様の所に来て、「永遠のいのちを受けるためには、どんな良い

事をしたらよいのでしょうか」と尋ねました。すると、イエス様は「殺すな。姦淫するな。

盗むな。偽証を立てるな。父と母とを敬え。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」と

言われ、これらの戒めを守り行いなさいとお答えになりました。すると、青年は「それは、みな

若い時から守ってきました。他に何が足りないのでしょうか」と追求して来ました。そこで主は、

「あなたがもし、完全になりたいと思うなら、あなたの持ち物を全て売り払って貧しい人に施し、

それからわたしに従って来なさい」と言われたのです。すると、彼はこの言葉を聞いて去って

行きました。「もし、彼が本気で若い時からみな守ってきました」と言うなら、たとえ損をする

ことがあっても、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」とありますから、主の

言われた通りにしたはずです。しかし、人間は「自分を愛すること」は、自分の得ですから、

進んでやりますが、「隣り人を愛すること」は、自分が損をするようなら、私たちはやろうとは

しません。しかし、イエス様はそれを大胆にされました。だから、イエス様は人の心の中にある

この損得の心を見られて、「損をすること、苦労すること、辱められること、苦しむこと、命を

失うこと、財産を失うこと。これらのリスクが全部自分に降りかかって来ることが分かって

いても、あえてそれを受け留めて、その道に向かって行く純な心を持ちなさい」と、彼に求められ

たのです。


(転) そこで、私たちはこの御言葉を通して、人間は皆、損得感情に捕らわれる弱さを持って

いるのですが、イエス様のメッセージによって私たちも、純な思いを持ちたいと願うのです。

しかし、人の心の中からは、この損得感情は死ぬまで消えませんから、その心を持ったままの

状態では、純な信仰で生きて行くことは難しいでしょう。確かに、それは私たちにはできません。


しかし、「人には出来ないことも、全能主にはできます」(16:26)。
ですから、私たちは

自分の力で純な信仰の世界に入って行くのではありません。
ここをしっかりと心に留めて置きたい

のです。
確かに、全能主は私たちに信じる者としての行動、即ち信仰の行いを求めておられます。

しかし、それは簡単にはできません。でも、
「人にはできないことが、全能主を通して可能なの

です。」
だから、私たちはこの信頼感の中に飛び込んで行こうとする信仰の心が必要です。もし、

飛び込んでいく勇気があるなら、可能性はあるでしょう。全能主とイエス様ご自身は、まさに純な

綺麗事を通し、私たち罪人を救い出して下さいました。そのような方であれば、たとえ私たちが

損得勘定の激しい者であったとしても、全能主は、ご自身の御子を殺してまで、罪人を救う

ために、綺麗事の救いを用意して下さった方ですので可能なはずです。しかし、この世では綺麗事

ばかり言っていれば、人から馬鹿にされて相手にされませんが、全能主には綺麗事を受け止めて

下さる心があるのです。それなら、私たちは信じたときに持った「この綺麗事の世界に歩みたい」

という気持ちを表わしたらどうでしょうか。全能主は私たちを後押しして下さり、その道を

通させて下さるのです。この心は、私たちの信仰の土台です。ですから、私たちは綺麗事の信仰を

通して行くべきなのです。


(結) 私たちは、全能主とイエス様の純な救いを知りました。普通は罪人が救いに与るなんて

不可能です。しかし、全能主はイエス様を通してそれを実現して下さいました。ならば、
「全能主

はできる」
と、私たちは信じてその中に飛び込んで行くべきではないでしょうか?これは、私たち

の信仰の土台です。そしてこの心で、私たちはこれから全能主のために働くのです。全能主は、

いよいよ終わりの時代に事を行われます。ルシファーと、荒らす憎むべき666と、偽預言が出て

きますが、彼らは滅ぼされて全能主の御心が実現するのです。私たちは、このことを大胆に証し

するために選ばれた一人一人です。その為には、人から何を言われようとも、全能主の言葉に

純粋に立って証ししていく必要があります。どうか、その全能主の心を汲み、
「人にはできなく

ても、全能主には何でもできる」
という土台に立って、使って頂こうではありませんか。「自分は

ダメだ」という中で凝り固まるのではなく、どこまでも「全能主はできる」という綺麗事の信仰に

踏み出しましょう。

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