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2020年10月11日
肉を(にな)われたイエス様

マタイの福音書23:1~12


(起)ゲッセマネの祈りで、肉の心を砕いて全能主の御心に従われたイエス様の決断を学び、

私たちも「自分の面子(めんつ)とプライドを砕いて従うこと」を学んでいきたいと思います。


(承)さて、8節を見ますと、「あなた方は『先生様』と呼ばれてはいけません」とあります

が、この真意は、「全能主を差し置いて、他の者を崇めてはいけない」ということです。それは

私たちにとって、全能主と結びつくことがすべてだからです。この全能主と結びつくためには、

「自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされる」(12節)のです。

ですから、私たちは自分の面子(めんつ)やプライドを完璧に砕かなければなりません。どういうことか

と言いますと、罪人は、本来自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。だから、

アダムとエバは、自分たちの罪によって苦しみを味わって行ったように、私たちも自分の罪に

よる苦しみや苦労は、自分が受けて行かなければならないものです。それなのに、私たちは自分

の弱さや恥から逃げようとします。そして、
逃げることによって、自分自身の面子とプライドを

どこまでも保って行こうとするのです。
そうしないと、この世では(はじき)き出されてしまうからです。

ところが、自分の面子やプライドを保って行くということは、全能主の前に、「私は罪人では

ありません」と表明することになります。すると、全能主と結び付く事とは逆の世界に行くこと

になってしまいます。はっきり言えば、それは全能主に逆らう世界に向かって行くことです。

ということは、現在の私たちの世界は、「自分の面子とプライドを守って行かなければこの世で

は生きて行けない」という現実があり、かといってクリスチャンが「自分の面子とプライドを

保って行けば、全能主に背を向けることになる」という、狭間(はざま)の状態にあるのです。このどっち

つかずの状態は、全能主の前に通用しません。だから、「自分自身の面子とプライドを砕いて、

全能主の御心のままに従う」という決断をはっきりしなければならないのです。



(転)実は、その決断をされたのがイエス様です。イエス様は、肉を(にな)ってこの地上に来ら

れました。「肉を(にな)った」ということは、「全能主に背を向けた人間の肉を、イエス様も

あえて(にな)われた」ということです。一般的には、イエス様は全能主の御子で完全無欠な

お方だと考えられていますが、もしイエス様が完全無欠なお方だったら、どんなに辛い中に置かれ

ようが、激しい叫び声をあげることはなかったでしょう。また、十字架の苦しみも難なく通って

行くことができたでしょう。そして、もしイエス様が肉の弱さをさらけ出さなければ、十字架の

苦しみも、単なるイベントで終わってしまったでしょう。しかし、人間の弱さを(にな)われた

イエス様が、人の苦しみを経験され、人間が負う罪の苦しみを(にな)われたことによって、

本当の意味で罪人の身代わりとなられたのです。だから、イエス様はあえて罪深い肉を持って

この地上に来られました。だから、ゲッセマネの園で、「わが父よ。もしできることなら、どうか

この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と祈られ、弱気な心を表されました。また、十字架上

では「わが父。わが父。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、本気で「全能主から

見捨てられた」苦悩を味わわれたのです。そのような極限まで追い込まれた中で、ゲッセマネ

では三度の祈りによって、「わたしがそれを飲まないかぎり、過ぎ去ることのない杯でしたら、

どうか、あなたのみこころのままになさって下さい」と、心をお定めになったのです。それは、

自分の面子とプライドを、人前で無茶苦茶にされることをあえて受け留められた上での決断

でした。それが、全能主に従う純な心だったのです。


(結)私たちには、そのイエス様の御蔭で救いに与る道が開かれました。本来、私たちのような

罪人が行く所は永遠の滅びしかありません。しかし、そんな私たちに、イエス・キリストの償い

を通して天に上げられる道が開かれたのです。だったら、「自分の面子やプライドなんてどう

でもいいです。私たちもイエス様の足跡に従って行きます」という方向に心が向けて行くのが、

純な信仰のあり方ではないでしょうか。イエス様だけに(みじ)めさを押し付けて、罪人である私たち

は、ただ「イエス様の御蔭で救われました」と言って、苦しみや辛さや困難から逃げ、それで天

に入れてもらえるなんてことは、あり得ません。もし私たちが自分の面子とプライドを砕かず、

天に行ったなら、それは本当に無礼な信仰になります。全能主から、「お前の面子と誇りを保つ

ために、イエスが死んだのではない」と言われて、天から追い出されてしまうでしょう。

どうか、私たちは悟ろうではありませんか。イエス様のように、ゲッセマネに行って自分の

面子とプライドを砕いて従っていくと定めることが純な信仰のあり方です。これなくして、

全能主に繋がることを考えられません。どうか、一人一人がゲッセマネの決断の中で、イエス様が

歩まれた純な信仰の道を歩み出しましょう。

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