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2020年9月27日
自分を低くするのは、当たり前のこと

マタイの福音書18:1~5


(起)マタイ18章4節の御言葉から、「自分を低くすることは、自分にとって当たり前のこと」

として信じていくことを学んで行きたいと思います。



(承)さて、マタイ18章4節では、弟子たちが「天の御国では誰が一番偉いのですか」と

イエス様に質問しました。すると、イエス様は「幼子のように自分を低くする者が、天の御国

では一番偉いのです」と言われました。そこで、「幼子のように」と言われた、この幼子の特徴

とはいったい何でしょうか。それは、幼子は、親がいなければ生きて行くことができません。

ですから、幼子はいくら親から叱られても、自分を低くして従っていくのです。これは、幼子の

立場です。イエス様は、「その幼子のようにして、わたしの許に来なさい」と言われました。

どういうことかと申しますと、私たちは全能主によって創られた被造物ですから、当たり前の

ように、自己主張は出来ない立場です。ですから、「私はあなたが生んだ子どもですから」と

自分の権利をひっさげて、大きな顔で近づく訳にはいきません。私たちに命があるのは当たり前

ではないからです。どこまでも、「命を頂いてありがとうございます」と下手に出ることが自然

です。全能主は、そのように下手に出る者、自分を低くすることのできる者に好感を持って受け

入れ、信頼して、側に置いて下さいます。ということは、それが被造物の立場ですから。

ですから、全能主に良しとされる一番の「徳質」は、自分を低くして下手に出る心です。



(転)では、その下手に出る心をイエス様に表したのは誰でしょうか。それは、15章に出て

くるツロの女です。彼女は、「悪霊につかれて苦しんでいる自分の娘を、何とか助けていただき

たい」と、(わら)にも(すが)る思いでイエス様の所に行きました。しかし、イエス様は、「わたしは、

イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていません」と冷たく扱われました。普通

ならば、女は落ち込んで(あきら)めて、やけっぱちになるところですが、彼女は尚イエス様に近寄って

「主よ。どうかお助け下さい」と食い下がって行ったのです。それでもイエス様は、「子どもたち

のパンを取って小犬に投げてやるのは、よくないことです」と、()()ねられました。

ところが、彼女は「主よ、お言葉通りです」と、
イエス様を否定せず自分が異邦人として退け

られても当然だ
ということを受け留めた上で、遜って「でも、小犬もその主人の食卓から落ちる

パンくずは、頂きます」と言いました。すなわち、「確かに私は小犬です。でも、主人の食卓から

落ちるパン(くず)でもいいですから頂きたいのです」という気持ちを表したのです。
彼女は、

イエス様からどんなにきつく言われても、逆らう気持ちを一切表さず、むしろ前向きに受け留め

て、へりくだって行きました。これが自分を低くするということです
私たちも、全能主から

怒られたとしても、このツロの女のように本気で自分を低くし、へりくだって求めていくべき

です。普通なら、私たちのような罪人は、誰からも相手にはされません。しかし、ツロの女の

ように遜った者をイエス様は邪険にされないのです。そして、イエス様だけが、こんな(みにく)い罪人

を自分の命と引き換えにして贖って下さったのです。私たちはこんな憐みを受けたのですから、

この先どんなことが起ころうとも、どこまでもイエス様にへりくだってお仕えして行くべきです。

それが私たちの
全能主に対する恩返しです。すなわち、全能主の前に、「自分でも出来ることが

あるならやらせて下さい」
と言って、なすべきことをやらせて頂くのです。しかし、なすべきこと

をしたからといって、誇れるものは何もありません。私たちはどこまでいっても罪人ですから。

ということは、最終的にはやはり自分を低くするしかありません。それだけが罪人に出来ること

なのです。しかし、イエス様はその心を軽んじず、「見上げたものだ」と言って、私たちを受け

留めて下さいます。



(結)こういうわけで、全能主が受け入れて下さる
徳質は何かと申しますと、へりくだり、自分を

低くすることです。逆に、この徳質を持っていないと、これから起こってくる苦しみに対して背を

向け、全能主に最後まで従えなくなります。だから、この徳質は絶対に身に付ける必要がありま

す。私たちは、たとえ自分たちにとって願わないことが起こったとしても、
また全能主に期待

した通りにならなくても、また命が取られることがあったとしても、それでも全能主に従うので

す。
「たとえそうでなくても」、全能主に信頼して従い通して行くことが、私たちの最後の証し

です。
どうか、「自分を低くする者が、天の御国では一番偉い」と言われたイエス様の言葉を

思い出してください。そして、
自分を低くすることは、私たちにとって当たり前の心だと自覚して

いきましょう。

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