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2019年 NO.684


地獄の扉を開く(かたく)なさ


 生まれながらに魔物を(かか)え込んでいた人間は、生涯の罪の負い目を(かか)え込み、

その行いに応じて裁かれる者でした。しかし、絶対主の憐れみによって、裁きの対象で

あった罪人の罪が、イエス・キリストの十字架に釘付けにされ、天国の門が開かれたの

です。こうして、クリスチャンは、一切の罪を赦して頂く幸いの中に置かれたのです」

が、罪人としての肉の性質はそのまま抱き続けているのが現実です。それは、私たちの

罪の負い目を自分が背負って責任を取った訳ではないからです。

 それは、絶対主がキリストに背負わせて、私たちの罪の償いをさせたものです。

ですから、私たちはキリストの御陰で救いに(あずか)っただけで、罪人の当人は贖いを

信じて受け取っただけで、自分自身は何もして来なかったのです。そんな私たちが、

救いを実際に味わうのは、キリストがこの世界の罪を清算される時に、キリストの贖い

を受けていた人々は裁きの対象から外され、新しい御霊の体を頂いて天に上げられる

という救いを、その時に味わうのです。
ですから、この地上にいる間は救いに与ったと

言えども、罪人の性質のままであることは、間違いありません。ですから、当然罪を

犯します。失敗もします。過ちも繰り返します。生まれながらの肉の性質も変わりま

せん。しかしながら、キリストの救いを通して、人の罪は裁きの対象から外されました

ので、地獄の門が閉じられ、天国の門が開いたのです。ならば、クリスチャンのこの地上

での歩みは、絶対主に心を開き、もし罪を犯した場合は、心を開いてへり下り、その罪を

度毎に悔いて告白し、素直な心を持って従って行くことは、最低限必要なことでしょう。

そうしなければ、自分には罪がないと言って、自分を欺くことになるからです。


 ところが、自分が間違っていたにも関わらず心を頑なにして心を閉じ、自分の肉の性質

に留まって悔いようともせず、生まれながらの肉の性質の中に閉じこもって行くなら、

罪人を救うためになされたキリストの贖いは、私たちと無関係となるでしょう。

 なぜなら、罪を認めない者に、キリストの死は無意味だからです。クリスチャンが、

自らの少しばかりのプライドの故に罪を悔いず、へり下ることをしなければ、キリスト

によって閉じられた地獄の門をもう一度開くことになります。
それがヘブル書10章に

記されている御言です。「真理の知識を受けた後にも、私たちが意図的に罪を犯し続ける

なら、罪のための生け贄は、もはやあり得ません。ただ、裁きと逆らう者たちを焼き

尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」と、実にリアルな御言が記されてい

ます。ですから、自分の過ちを指摘されて反発の心に留まるなら、罪人のための生け贄は

もはや無効となってしまうのです。

だから、信じた者は生まれながらの性質に留まってはいけません。絶対主が心を開いて、

贖いの道を開いて下さったのですから、信じた者は当然絶対主に心を開き、自分の罪には

どこまでも悔いて、心底告白して自我から離れ、心を変えて行くべきでしょう。


愚かにも、キリストの贖いを無視していた未信者時代の自分に戻るのは、蛇の思惑の中に

()まるだけです。反発の種は蛇が入れ込んだものですから、頑なな心に戻って、

再び地獄の門を開いてはなりません。もう、反発の心と供に、地獄の門は封印しましょう。


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