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2019年 NO.683


クリスチャンの意思の用い方と決断


主に従うことを願ったクリスチャンたちは、マタイ16章24節の御言にあるように、

「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分自身を徹底的に否定し、自分の十字架

を負って、わたしに従って来なさい」と言われています。すなわち、主に従うとは、心を

閉じず素直に聞くことから始まります。この素直に聞くことは、怒られても反発せず心を

開いて聞くこと
ですが、「そのように出来ない」と思うのが、私たちの正直なところ

です。なぜなら、怒られれば自分が否定されることであり、言い訳し弁解したくなる

のは、子供の頃から身に付いていた習慣だからです。この反発の心を出す習慣は「親から

教えられたもの」ではありません。実はこの反発の起源は蛇から出ているのです。アダム

とエバが、絶対主から「取って食べたのか」と指摘された時、アダムは「私と共にいる、

あなたが与えて下さったあの女が木から取ってくれたので、私は食べたのです」といって

弁解し、その責任を絶対主に押し付けて、素直に罪を認めようとしませんでした。これは

エバもそうです。エバは「蛇が私を欺いたのです。それで食べました」と言って、「自分

が無条件で悪かったのです」と言って謝ることをしませんでした。これが人間の反発の

出所で、親に教えられていなくても、生まれた時から身に付いている罪の性質の表れ

です。この思い、この考え方は明らかに蛇に騙されたアダムとエバから来たものです。


 ですから、人間の反省は、自分の罪を認めているようで、そうではなく蛇から来た

悪知恵を使った言い訳なのです。これが、私たちが蛇の頭を使うルーツです。これでは

「悔いし、砕かれた魂」をもって、素直に主に聞き従うことは出来ません。そこで

「悔いし、砕かれた魂」を身に付けて行くために、まず蛇の頭を使わないと決めなけ

ればなりません。
そのためには、私たちの決断がいります。しかし、この決断は一般的

には、自分の頭で決めた意思に基づくものですから、自分の意思を働かさなければなり

ません。すなわち、自分の決意に頼ることです。ところが、私たちの意思はそんなに

強くありません。自分の感情次第で、すぐに崩れ去って行く弱い意志です。キリストの

救いを信じた時も、なかなか決心がつきませんでした。それは心が付いて行かなかった

からです。頭の中には蛇の妨げが渦巻いていて決断ができませんでした。しかし、聖霊様

の助けによって、決信が出来たのです。だから、その決信は、自分の強い意思による

ものではありません。ということは、決断には二面性があるということです。


未信者の場合は、自分に頼るしかありません。しかし、私たちの場合は、信じる時に

聖霊の助けがあったように、信じた後の決断も助けがあるのです。それは、信じた時に

御霊が私たちの心に住んで下さるようになるからです。その御霊は頭の中に住まわれる

のではありませんから、私たちは蛇の頭を使うのではなく、心の中に住んで下さって

いる御霊の助けを受けて考えた決断に従う
のです。この方法は、未信者時代とは全く

違います。未信者時代は頭で考えたものを心の中に入れます。しかし、キリストを

信じた者は、心の中に住まわれる御霊によって考えたものを決断として頭に言い聞かせ

ます。


  決断には、この二通りの方法が現実にあるのです。だから、クリスチャンは頭で考えて

心に入れるのは止めて、心で考えたものを、自分の定めとして始め出すのです。絶対主

は、その信仰の心を働かせて従ってくるか、どうかを見ておられます。この決断の

仕方は、怒られても反発せず受け留め、相手の言葉を心の中に入れて聞き、御霊の判断

を自分の応答にして行くのです。
この信仰の決断こそ、主に従うことを願ったクリ

スチャンの生き方なのですから。

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