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2019年9月8日
絶対主に信頼していく世界に両足入れて

マタイの福音書6:24~34


(起)マタイ6:33の「まず第一に、絶対主の国と絶対主の義とを追い求め続けなさい」

という御言葉から、「どんなに行き詰っても絶対主に信頼して行く世界に両足を入れる」こと

を学んで行きたいと思います。


(承) さて、私たちはこの山頂の垂訓の記事を読むと、「あれもこれもやって、正しい人間

にならなくてはならない」と思い、自分の正義感を働かして、真面目な人間になろうと決意し

ます。ところが、そのように決断することは簡単ですが、いざ、実際にその通り行おうと思う

と、その通り心が動かない自分に遭遇します。そして、惨めな姿をさらけ出します。私たちは、

いつもこんな自分に失望しているのです。いくら、真面目な人間になろうとエネルギーを使って

も、その心に戦いを挑んでくる魔物に敗北しているのが現実です。
しかし、イエス様の救いは、

モーセの律法では義とされなかった私たちを、信仰によって救うことでした。ですから、イエス

様の救いは、罪を消してしまうことではなく、罪人の罪を贖うことです。
ならば、キリストを

信じたクリスチャンは、
自分に根拠を置くのではなく、キリストの贖いを根拠にして、霊の本心

にウエイトを置いて歩み出すべき
です。ですから、イエス様は山頂の垂訓で語られた後に、

「誰も二人の主人に仕えることはできません。」「まず第一に、絶対主の国と、絶対主の義を

追い求め続けなさい」と言われたのです。すなわち、自分に信頼して自分の努力で生きて行く

のではなく、
「絶対主に信頼する」という一点に意識するということです。私たちの肉は、

もともと罪人ですから、いくら自分に律法を課せても、人から褒められ、尊ばれ、栄光を受け

られるような者になれません。だから、どれだけ自分に望みを置いても、自分に裏切られる

だけで、どうにもならない(さが)が在るのです。それが分かったら、私たちが信頼すべき

お方は、こんなどうしようもない
罪人のために死んで下さったイエス様と、イエス様を送って

下さった絶対主に徹底的に依り頼んで行くしか道はありません。私たちは、そのことを悟り

切ることです。


(転) では、「絶対主に依り頼んで行く」とはどういうことでしょうか。それを具体的に

始め出したのがJ・ミュラーさんです。ミュラーさんは、全面的に絶対主に信頼する道を歩み、

たとえ行き詰まっても、最後まで絶対主に信頼して行く信仰の在り方を証した人です。

ミュラーさんは、親のない孤児たちが路上生活しているのを見て心を痛め、「まずこの子たち

を何とかしたい」と考えます。その時、ミュラーさんは「孤児の父は絶対主である」という

詩篇の御言葉に遭遇し、「孤児の父が絶対主であるならば、絶対主が養って下さるはずだ」

という方向に心を向け、絶対主に信頼して行動を取った人です。しかし、その決断は、決して

簡単なことではありませんでした。なぜなら、聖書にはそのように書いてあっても、今現在、

目の前には孤児たちがたくさんいるという状況があるからです。すなわち、「孤児の父は絶対主

である」と聖書に書いてあるにも拘わらず、この悲惨な状況は現実に今あるのです。すると、

現実には孤児は見捨てられているのですから、「孤児の父は絶対主である」という御言葉を

信じ切って行動を取ることは難しいことです。しかし、ミュラーさんは「孤児たちを、何とか

したい」という一心で、御言葉をそのまま信じて、「絶対主によって孤児を育ててもらおう」

と決断したのです。その時、ミュラーさんの家庭の状況は、「自分の家族を養うだけでも

精一杯でした。なのに、本当に孤児たちを育てて行くことができるだろうか」という不安も

あったことでしょう。それでも、
彼は絶対主に信頼し、その世界に両足を入れたのです。

これが絶対主に徹底的に依り頼んで行く具体的な信仰の模範です。そこから始まったのです。

ということは、「孤児の父は絶対主であるという御言葉を信じて行動を起こす者がいれば、

絶対主はお助け下さる」ということです。しかし、たとえ御言葉に遭遇しても、「その通りだ」

と思うだけでは信頼を行動に移さないのが一般的です。御言葉に対して本当に信頼する気持ち

があるなら、行動を起こすはずです。私たちも、聖書に書いてある言葉を信じたのです。

すなわち、「自分には信頼できないが、イエス様には信頼できる」ということを信じたのです。

ならば、絶対主を信頼するのは当たり前です。それなのに、いつまでも自分に信頼し、絶対主

にも信頼しようという、両股かけているのでしょうか。


(結) 私たちは、自分が全面的に罪人であることが分かり、自分の力では自分を救うことが

できないことが分かりました。だから、イエス様に依り頼んだのです。ならば、そのイエス様

を送って下さった絶対主をどこまでも信頼し、そこに両足を置くべきです。なのに、片足は

絶対主に信頼する方に置き、もう一方の足は自分に信頼する方に置いて、もし絶対主が願いを

聞いて下さらなければ、いつでも自分の思い通りにしょうと逃げ足を確保している生き方は

卑怯千万(せんばん)で、絶対主を利用するだけの人間になります。そんな姿勢を持っていて、

本当に信じたことになるでしょうか。それは偽善の信仰です。聖書には、「まず第一に、絶対

主の国と絶対主の義を追い求め続けなさい」と書いてあります。「第二」はありません。

ということは、二心は駄目です。絶対主に信頼する方にウエイトを置き、どこまでも信じる

当事者となって、初めて絶対主と繋がるのです。どうか、自分の今までの曖昧な信仰の原因が

ここにあったことを悟り、
ミュラーさんのように、どんなに行き詰っても絶対主に信頼して

行く心に入れ替え、信じる世界にウエイトを置いて始め出しましょう。


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