教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2019年9月15日
絶対主を根拠にした生き方にチェンジ

マタイの福音書10:40~42、10章38節


(起)マタイ10章40~42節、10章38節の御言葉から「自分を根拠にした生き方から、

絶対主を根拠にした生き方にチェンジし、どこまでも絶対主に頼って生きて行くこと」を

学んで行きたいと思います。


(承)さて、40節を見ますと、「あなた方を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」と

ありますが、これはどういう意味かと申しますと、「イエス様を信じている者たち、すなわち

クリスチャンを受け入れる者たちは、たとえその者が未信者であっても、イエス様と繋がる

可能性がある」ということです。そして、42節には、「誰でも、わたしの弟子であるという

名の故に、これらの小さき者たちの一人に、冷たい水一杯でも飲ませる者は、決して自分の

報いを失うことはありません」とあります。現代は、蛇口をひねればいつでも冷たくておいしい

水を飲むことができます。ですから、冷たい水一杯を提供することに 対して、そこまでの

感動は覚えません。しかし、昔は井戸から汲み上げて飲んでいました。今のように冷蔵庫が

なかった 時代には、その井戸水は、夏は冷たく、冬は温く感じたのです。そして、当然

井戸水には所有権があり、だれでも汲めるものではありませんでした。だから、旅をして喉が

渇いた時に、冷たい井戸水を一杯汲んでもらうことは非常にありがたいことでした。それは

本当においしく感じるものです。ところが、水を汲んであげた人は、自分がその井戸を掘った

わけでもなく、当然水を造ったわけでもありません。だから、ただ汲んであげただけです。

ですから、そこまで感謝されるようなことをしたという自覚はなかったことでしょう。でも、

もらった方としては、その水一杯がとても印象に残るのです。ここに記されている「水一杯」

とはそういうものです。これを今の時代の例話に置き換えれば、私たちが教会に行くことを

未信者の家族の者がそれを受けとめて、少しでも「協力してあげよう」という気持ちを持って、

もし送り迎えをしてくれるようなことがあれば、絶対主はそういう行為を水一杯として覚えて

いて下さいます。そして、その者は決して報いを失うことはありません。もちろん、これは家族

だけとは限りません。
私たちが地上で接してきた人の中で、私たちがキリストにある小さき者に

してくれた行為に対して、絶対主は同じようにして考えて下さり、絶対主に繋がって行くことが

あるのです。だから、私たちが今教会に繋がっていることは、本当に価値あることです。


私たちがイエス様を受け入れ、絶対主に繋がっていることの故に、私たちと関わりのある家族や

友人も天に繋がる可能性があるからです。


(転)しかしながら、もし、私たちがただ形だけで教会に来ているようなクリスチャンである

ならば、私たちの家族や友人は天に繋がりません。先程お話ししたような繋がりは、私たちが

絶対主と確かな繋がりがあって、始めてあり得ることです。 本物の信仰とは、「自分自身を

徹底的に否定して、自分の十字架を負ってイエス様に従って行く」(10章38節)ということ

です。「自分の十字架を負う」とは「自分の死を負う」という意味ですから、イエス様に

「『いつでも自分の命を差し出します』という覚悟を持って従うこと」を意味します。これは

伝道者だけに語られている内容ではなく、一般のクリスチャン全員に語られている内容です。

しかし、私たちの内には、「自分の肉を守る心と、主に従って行きたい」という心の二心が

あります。 そんな中で、「私は自分の十字架を負って主に従って行きます」と言い切ることが

できるでしょうか。私たちは、問われれば簡単に正しい答えを口にしますが、実際はそれをする

ことができるような者ではありません。私たちは死ぬのが怖いし、臆病で、すぐに自分を庇って

しまうような人間です。だから、
私たちは、「こうします、ああします」ということを、自分に

根拠を置いては言えないのです。
しかし、だからといって、「それはできません。あれもできま

せん」と、絶対主の前に全部拒否することもできません。では、私たちはどうすればいいので

しょうか。確かに、自分自身には、従うだけの根拠もなければ、強い意思力もありません。

しかし、絶対主に頼り、絶対主に助けていただいて、その中で、「こうしていきます」という

ことは、できるのではないでしょうか。だから私たちは、「自分にはできない」と認めた上で、

「主に従って行きたい」という霊の本心にウエイトを置き、「自分は弱い人間ですが、絶対主に

助けていただいて、その道を全うしていきます」と、叫び求めるのです。
私たちは、絶対主に

助けていただくという根拠にのみ望みを置いて、初めて十字架を負って従って行く道を歩み出す

ことができます。それが本物の信仰であり、私たちの信仰の在り方です。


(結)このように、私たちは弱い肉を持った罪人であることには代わりありません。ですから、

何もかも自分で決めて、自分の力でやって行くことなどできません。だから、どこまでも絶対主

に頼って、絶対主に繋がって行くのです。この生き方が、私たちの本心であるならば、絶対主も

私たちを覚えて下さり、そしてその故に、私たちと関わりのある家族や友人も絶対主に繋がり

ます。どうか、
自分を根拠にした生き方から、絶対主を根拠にした生き方にチェンジし、

どこまでも絶対主に頼って生きて行こうではありませんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室