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2019年5月12日

絶対主の前にありったけの心を注いで

第Ⅱテモテ1:6~14


(起)第Ⅱテモテ1章14節の御言葉から、絶対主に「ありったけの心」を注いで行く努力は、

「聖なる都エルサレムの実現のために働くことだ」、ということを学んで行きたいと思います。


(承)さて、第Ⅱテモテ1:14節を見ますと、「あなたに委ねられた高潔なものを、私たちの内

に宿っている聖霊によって守りなさい」とありますが、「あなたに委ねられた高潔なもの」とは一体

何でしょうか。それは、絶対主が一番願っておられる、「聖なる都エルサレムの実現のために働く

こと」です。絶対主は、天地万物のすべてを、聖なる都エルサレムの実現のためにお造りになられ

ました。そして、聖なる都エルサレムを、ご自分の一人子であるイエス様を中心とした幸いな交わり

の場にしたいと願っておられるのです。その絶対主の御心そのものが「高潔な事柄」であり、

そのために働く者として、私たちは今、召されているということです。


(転) しかしながら、私たちのような生まれながらの罪人が、絶対主と交わりをさせていただく

ことは、普通ならあり得ないことです。ところが、そんな私たちのために、絶対主はご自分の

一人子であるイエス様の命を懸けて、私たちの罪の償いをして下さいました。その事実を信じ受け

取った者は、罪の精算が終わった者として、天に上げて頂けるのです。しかし、信じたクリスチャン

の中には、「信じます」と告白したにもかかわらず、心の中では、「自分の罪の償いがなされている

という」確信を持てない人が、たくさんいます。それは、「自分が現実にイエス様とお会いして

いないし、自分が救われたかどうかは、実際に天に上げて頂かなければ分からない」と考えている

からです。しかし、救いはアオリスト形です。ローマ書6:11を見ますと、「あなた方は、罪に

対して死んだ」とあります。私たちはここを読んで、「いつ、自分が罪に対して死んだのだろうか」

と思うかもしれません。しかし、アオリスト形は、私たちの現在の状況如何にかかわらず、過去に

既に起こった事実として記される時制ですので、私たち自身が今どう思おうが、絶対主は私たちの

ことを「イエス・キリストと共に死んだ者」として見ておられるということです。そして、「他方

では私たちの主イエス・キリストにあって生きている者であると、みなし続けなさい」とあります。

「みなし続けなさい」とは、絶対主がそのようにイエス様に在って見ていて下さるからです。

歴史上では、イエス様の十字架は明らかです。ですから、「自分はイエス様によって(つぐな)いが

されているということを、実際には味わっていなくても、それを自分の事として信じ続けて行きな

さい」ということです。このことが分かったら、私たちは「ここに懸けて行きたい」と思うのが自然

です。そして、この救いを下さった絶対主に対して、「ありったけの心」を表して行きたいと思う

はずです。しかし、その「ありったけの心」を絶対主に向けて行ったとしても、「全てが上手く

行って、絶対主のために良い結果を残せる」ということではありません。私たちは、ありったけの心

を持っていたとしても、時には恐ろしくなって身を退いてしまうこともありますし、失敗することも

あります。例として、ペテロの水上歩行です。しかし、それでも諦めずに絶対主に対する「ありった

け」の心を表し続けて行こうとする心を、絶対主は「良し」として下さいます。ですから、どこまでも

絶対主に心を注いで行く努力は、私たちにとって良いことです。しかしながら、私たちは努力が嫌い

で、
努力というものに対して、つい腰が引けてしまうところがあります。それは、過去に「努力し

てもダメだった」ということを味わって来たからです。しかし、絶対主に対する努力は、「結果を

出し続けて行くことによって、絶対主が認めて下さる」というものではありません。そうではなく、

「自分の心をどこまでも絶対主に向けて、努力して行くかどうか」ということです。たとえ、

「自分が絶対主の前に受け入れられないような罪を犯して、挫折してしまった」としても、それでも

諦めないで、絶対主に心を向けて行くか、どうかなのです。絶対主は、私たちのそのような心を

大事にして下さる方だからです。

(結)ですから、
私たちはその努力を決して怠ってはいけません。努力というのは、「1秒の努力」

です。例えば、机の上を綺麗な状態にしておくために、「机の上に出した物を、必ず元の

場所に戻す」ということを、意識して行うかどうかの「1秒の努力」を、する気があるかどうか

です。それをする努力は、1秒あれば十分です。綺麗にしたいという心があるなら、その1秒の

努力を惜しみません。絶対主に対しても同じです。
絶対主に対して、「どこまでも心を表して行き

たい」という心があるなら、「1秒の努力」を怠ってはいけません。
その「1秒の努力の積み重ね」

が、自分でも知らないうちに、「ありったけの心」を絶対主に向けていく自分へと、変わって行く

からです。すなわち、絶対主の「高潔な仕事」のために用いて頂けるような自分に、知らないうち

に変えられて行くのです。どうか、私たちはどこまでも絶対主に心を向け、絶対主にありったけの

心を注いで行く努力をして行きましょう。そして、絶対主が一番願っておられ「聖なる都エルサレム

の実現のため」に働かせて頂こうではありませんか。


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