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2019年5月19日

信仰の従順の世界に入る

ローマ人への手紙1:2~7


(起)ローマ書1章5節の御言葉から、「『信仰の従順』の世界に入るためには、『砕かれた

悔いし心』が必要であり、その『砕かれた悔いし心』とは、自分自身の不満をぶつけるの

ではなく、それを引っ込めることから味わっていくものである事」を学んで行きたいと思い

ます。


(承)さて、5節を見ますと、パウロの使命は「すべての諸国民に、『主を信じ仰ぐ心の従順』

をもたらすため、主イエス・キリストによって恵みと使徒の務めを受けました」とあります。

いつも学んでいるように、私たちは「イエス様を信じたから、もう大丈夫」とは言えません。

なぜなら、信じた後に自分の我を通すなら、絶対主を信じた者とはならないからです。

ですから、イエス様を信じた者として、私たちはこの「信仰の従順」の世界に入って行かな

ければ、御国に繋がるとは言えないのです。ただし、この「信仰の従順」とは、「単なる

イエスマン」というのではなく、「素直に従って行く、自発的な心の行い」のことです。

しかし、それは律法と捉えてはいけません。私たちは、イエス様によって律法から解放された

ので、律法の故に従うのではなく、あくまでも私たち自身の自発的な心の行いとして、

外側に表されて行くものです。それが、「信仰の従順」の世界に入るということです。


(転) では、私たちが「信仰の従順」の世界に入るために必要なことは何でしょうか。

それは、
「砕かれた悔いし心」です。絶対主は、最低限、私たちが「砕かれた悔いし心」を

持つことを願っておられます。
砕かれた悔いし心とは、一言で言うならば「自分自身の非を

認めること」
です。私たちは、自分自身が過ちを犯して怒られると、心の中に不満を抱きます。

その不満の出所は、「自分の思い通りにできなかった」という我です。多くの場合、私たちは

その不満を人にぶつけ、「この人の所為だ」、「あの人がこう言ったからだ」と言って、自分

自身の過ちを人の所為にしてしまいます。本来なら、クリスチャンは自分の内側の罪を知ら

された者ですから、人に不満を抱く前に、自分の所為でもある事に気づき、それを人にぶつ

けることは、自分を義として絶対主に不満をぶつけることだ」ということを知るべきです。

それを理解すれば、「その不満は引っ込めることだ」と分かります。ところが、私たちは人を

裁くことの罪の恐ろしさに気付いていませんので、むしろ、どこまでも自分の我を通して、

自分の正しさを主張し、自分は正しいことを言っていると思いがちです。それは、罪人である

自分が、絶対主の前に罪がないことを主張するのと同じです。私たちは何故、「自分自身が

正しいと思い、自分の不満を引っ込めることが出来ない」のでしょうか。それは、今の時代は、

学校でも家庭でも「自分の我を引っ込める」という教育が為されていないからです。戦後の

日本の教育は、アメリカの影響を受けた「個人の自律を育てるという教育であって、他人の

ことを気遣って「滅私奉公」の心で仕えていくことは、時代遅れの教育だ」と変わって行き

ました。親や先生が子供の過ちを戒めることを控え、「子供のわがままを放任しているのが

現実です。」だから、「わがままも仕方ない」という感覚で教育がなされて来たのです。

だから、私たちは子供の頃から、自分のわがままや不満を引っ込めることが身に着いておらず、

大人になった今でも、それが出来ないでいるのです。逆に、「自分の考えを持ち、自己主張

出来る子にならないと役に立つ子にならない」と教えられてきたのです。この自分中心に物事

を考え、どこまでも、「自分の我を押し通して行くことが当たり前」になってしまっている

世界は、絶対主の前にも同じ事をしてしまうのです。そこからは、決して「砕かれた悔いし心」

は出てきません。
「砕かれた悔いし心」は、クリスチャンが絶対主から求められているもの

あり、
罪人の人間なら、当然自分の不満や自分自身の考えを引っ込めて、絶対主の思いに従う

べきです。
それは、やろうと思えば誰でもできる筈です。怒られたとき、自分自身の不満を

横に置き、絶対主の側に立ってその話を聞けば、「確かに相手の主張が分かり、腹を立てる

自分の方が悪かった」と分かります。それが分かれば、「自分が間違っていた」と素直に謝る

ことができるでしょう。

 このように、
「自分の不満を引っ込めて、絶対主の側に立ち、自分自身の非を認めて、へり

くだって絶対主に従う道」を選んで行くこと
が、絶対主の前における「砕かれた悔いし心」

なのです。そして、その「砕かれた悔いし心」が、「信仰の従順」の第一歩となるのです。


(結)このように、私たちが我を引っ込める事が出来るようになれば、「相手が悪いのでは

なく、自分に非があるのだ」と 自覚でき、絶対主の前にも素直に従っていく心が身に付いて

行きます。そうすれば、私たちは「砕かれた悔いし心」を土台として、「信仰の従順」の中を

一歩一歩レベルアップして行くことができるのはないでしょうか。どうか、これ以上、自分

自身の我の中に意固地になって留まり続けるのではなく、自分を砕いて絶対主の側で考えて

いく「砕かれた悔いし心」を身に付けようではありませんか。それは、普段から自分自身の

不満をぶつける習慣を改め、それを引っ込めて行くことから始め出すことです。自分の主張は、

相手の心を理解してからでも遅くはありません。この真理に目覚め、
「砕かれた悔いし心」を

持って「信仰の従順」の奥義を味わって行く者
とされて行きましょう。


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