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2019年4月28日

信じる心の行動は、相手の心を汲むところから

マルコの福音書13:3~27


(起)マルコの福音書9章の自分の子供の解放を願う一人の父親の姿勢から、「絶対主に仕えて行く

私たちの信じる心の行動は、相手の心を汲む所から始まる」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、おしの霊につかれている一人の少年の記事が出て来ます。単なるてんかんでなく、

話すことの出来ない子供で、おそらく生まれた時からだと思います。父親は、弟子たちの所に連れて

来ましたが、弟子たちには追い出すことが出来ませんでした。そこへ、山で変貌を目の当たりにした

幾人かの弟子と共にイエス様がおいでになりました。父親はイエス様に「もしあなた様に何か出来

ますならば助けて下さい」と言いました。するとイエス様は、「もし出来るならと言うのか」と叱責

されました。この父親の言葉は、求められる側に対して本当に失礼な言い方です。 しかし、この

父親の言葉も、実際に追い出しを弟子たちに願い求めたが出来なかったというイラ立ちからです。

父親は、必死の思いで願ったにもかかわらず、それが叶わなかったということを目の当たりにして、

大きな絶望感も味わったのでしょう。そして、
この「できない」という経験が「信じることに対する

恐れ」に繋がったのです。
しかし、変貌でも分かる通り、 御子であるイエス様の側に立つならば、

出来るか出来ないか疑うなら、初めから来るべきではなかったのです。「本当に求める気があるの

なら、初めから信じて来なさい」というのが、イエス様のお考えです。


   しかし、私たちにも、この父親と同じような部分があるのではないでしょうか。私たちが、

なかなか絶対主の側に立って物事を受けとめることが出来ないのは、祈っても答えられなかった

経験を抱え込み、なお惨めな経験をしたくないという警戒心が染み付いているからです。
そんな

不信仰な思いからでは、絶対主の心を汲み取る心遣いは出て来ません。そして、汲むことが出来な

ければ、仕えて行くことも出来ません。例えばエバは、アダムの助け手という目的で造られました。

ですから、エバは「相手が何を求めて何を願っているか」ということを考えて助けなければ助け手

になりませんでした。もし相手のことも考えずに、自分が助けたいという思いだけで、自分中心な

感覚の中で相手を助けたとしても、「かえって手を出すな」と言われてしまうこともあるでしょう。

本物の助け手というのは、相手がやってほしいと願っていることをする人のことです。自分の側に

立っていては助ける心は出て来ません。また第三者のようになって、外側から眺めるような感覚

で助けるというのも駄目です。第三者の思いでは、「何か難しそうなことをやっているけど、

そんなこと自分には出来んな」と思いながら、「誰か他の人にやってもらおう」という逃げの世界

に入ってしまい、全然動こうとしなくなります。そのようでは、心を使おうとしなくなります。

そういう引いた気持ちなら、助けを期待している人にとっては「何だこいつは」と、邪魔者扱い

されてしまうでしょう。
本当の助け手とは、どこまでも自分中心な思いから離れて、相手の気持ち

に立って、相手が願うことをこちらが心と身体を動かして協力する人です。自分勝手な物の見方に

立っていては、助け手にはなれません。
ですから、どこまでも相手の側に立つ」という助け手の

考え方が、絶対主に仕えて行く者には必要なのです。


(転)そこで、絶対主に仕えて行くための私たちの側の行動について考えて行く時、まず絶対主の

方が、私たちのことを深く考えて下さり、罪の問題を抱えていた私たちを、罪から解放し救って

下さったことを心に留めるべきです。その救い主のことを「自分が困ったときに助けてくれる優しい

方であり、いつも包んでくれる救い主」だと、自分の側の都合を押し付けて、絶対主に仕えて行く

べき者であることを忘れてしまっているのです。しかし、
絶対主の究極の目的は何だったのでしょう

か。それは、「御自身の聖なる都を造ること」です。
人が創られたのは、絶対主の聖なる都に組み

込むためです
。ですから絶対主の目的は、御自身の目的のために、御自身のお考えに適う者たちを

見極め、その中で選んだ一人一人を「聖なる都の一員として組み込むこと」
です。聖なる都では、

絶対主と子羊は都の栄光であり、光に満ちた世界です。みんな絶対主と子羊を礼拝し、そして長子

である御子イエス様との幸いな交わりを創り上げて行くことです。そういう世界を絶対主は創り

上げようとして、私たちを選ばれました。
救いとは、その前段階として絶対主がなさった一つの

御業です。罪人のままでは天に引き上げることが出来ませんから、イエス様をお遣わし下さって、

罪の問題を全部解決してくださったのです。この前提によって御国を創り上げるのです。


それならば、「すべて、人間中心の物の考え方や思いは、絶対主に通じるものではない」ということ

が分かってくるでしょう。私たちは、聖なる都に役に立つ一員とならなければならないのです。

「何もかもが全部人間のため。そして、人間のために聖なる都エルサレムが用意され、救いが与え

られた」という考えは、人間の身勝手な、何と浅はかな考え方でしょうか。この絶対主の心が理解

できれば、絶対主の考えに沿って考えていかなければいけないことが分かってくるでしょう。

その絶対主の考えを無視して、今まで通りに自分の出来ること、味わったことの中で判断して、

その中で絶対主に従おうと思っても、自分勝手でわがままな従い方で終わってしまいます。
だから、

ここのところが、私たちの大切な意識として明確にひっくり返えされていかなければいけません。


「自分自身の意識を100%転換して、そして、絶対主のために生きるのだ」という方向に向かって

いかなければいけません。
自分自身を満足させるために、自分自身のやりがいを求めて奉仕をする

のではありません。
それは全部私たちの地上での身勝手な物の見方です。この父親も、結局絶対主

の心を理解していなかったということです。ただ自分中心に「我が子の救いのみを考えて」、

「絶対主に仕えて行く人間としての心」を考えていなかったということです。それは、単なる地上

のご利益だけを追求している人間の我に過ぎません。しかし、その後に出てくるツロの女は違い

ました。同じように子供の解放を求めましたが、拒否されても「その通りです」と答え、イエス様

の意図を汲んだ上で、「でも食卓の下にいる子犬たちも、子供達のパンくずはいただきます」と

へり下りました。ツロの女はユダヤ人の支配の外にいる者です。「食卓の下」というのはそういう

意味です。ユダヤ人が住んでいる地域のすぐそばではあったのですが、ユダヤ人ではないのです。

だから、自分たちを「子犬」に例えたわけです。「食卓から落ちるパン屑だったら子犬でも頂け

ますから」ということです。これは、イエス様の気持ちを逆なでする言葉ではありません。また、

てんかんの父親のように、「もし出来ますならば」という「信じることを恐れる心」でもあり

ません。この言葉は、イエス様の側に立って考えたからです。だからこそ、「本当の信じる心」

を表すことが出来たのです。イエス様は、「それを 良し」とされ、願いを聞かれたのです。


(結)私たちの贖いは、絶対主の側の第一ステップの御業です。我々は何もしていません。ただ

信じるだけでした。しかし、第二ステップは、私たちの信じる行為が必要なのです。「私たちが

絶対主の側に立って、私たちの心を絶対主のみこころに向けて行く、信じる行動が必要とされて

行くのです。」なぜなら、聖なる都の一員として組み込まれるにふさわしい者は、「聖なる都で

絶対主が使いたいと思う者」のことだからです。そのためには、絶対主は、「私たちが本気で絶対主

を信じ、絶対主に仕えて行きたいと思う心があるかどうか」を見極めておられるのです。どうか、

この第二ステップに向かって、今日から心を新たにして向かって行きましょう。そこから「信じる

心の行動」を表して行きたいと思います。


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