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2019年4月21日

信じる心の(じつ)を表す

マルコの福音書9:14~29


(起)マルコの福音書5章36節の「恐れてはいけません。ただ信じていなさい」という御言葉から、

「最後まで、絶対主を信じる心の(じつ)を表すこと」を学んで行きたいと思います。


(承) さて、会堂管理者であるヤイロは、イエス様の所に来て、「私の娘が死にかかっています。

どうぞ、娘が癒されるように、来て、手を置いてやって下さい」と願い、イエス様は彼と一緒に

出掛けられました。ところが、その途中でヤイロの使用人がやって来て、「あなたの娘さんは亡く

なりました」という知らせが入ったのです。ヤイロは、「もう少し早くイエス様が来て下さったら」

とガッカリし、悲しんだに違いありません。しかし、イエス様はその言葉を聞き流して、「恐れては

いけません。ただ信じていなさい」と言われたのです。この地上では、「人は死んだら終わりだ」

という感覚が当たり前の常識です。しかし、イエス様は初めから彼女を癒す事を考えておられ、

たとえ彼女が死ぬことがあったとしても、彼女をヤイロに返すという意識を持っておられました。

だから、イエス様は「娘は死にました」と聞かれても、あえて「恐れないで、ただ信じていなさい」

と言われたのです。イエス様は何でも出来る方であり、(じつ)を与えることのできるお方ですから、

「わたしは出来るから」という意味で、「恐れないでいなさい」と言われたのです。私たちも、

「恐れを抱いてはいけません」なぜなら、絶対主を信じ、イエス様を信じた者なら、「イエス様は

おできになる」と最後まで信じる(じつ)を表して行くべきです。


(転) そこで、 ペテロの場合を見ていきましょう。マルコ6章45~52節を見て行きますと、

イエス様が湖の上を歩く場面が記されています。イエス様は、夜中の三時頃、湖の上を歩いて弟子

たちの舟に近づいて行かれたのですが、弟子たちはイエス様のことを幽霊だと思い、驚いて大声で

叫びました。ところが、イエス様は「わたしだ。恐れることはない」と言われた時、ペテロは、

「主よ。あなたでしたら、水の上を渡ってあなたの所に来るようにと、私に命じて下さい」と言った

のです。このあとのことについては、マタイの福音書に詳しく記されています。マタイ14:28を

見ますと、ペテロは、「イエス様は実際に水の上を歩いておられる。その(じつ)を表しておられる

お方だから、もしイエス様が私に命じて下されば、自分もイエス様と同じように水の上を歩ける

はずだ」と信じたのです。すなわち、ペテロは信じる(じつ)を表わそうとしたのです。すると、

イエス様は彼の心を喜ばれ、「来なさい」と言われました。そして、「来なさい」と言って下さった

イエス様の言葉を信じ、彼は水の上を歩き始めました。ところが、問題はこのあとです。彼は風を

見て恐れを抱き、沈みかけてしまったのです。風を見たということは、すなわち、この世の中の常識、

この世の中にいる自分を強く意識してしまったということです。ペテロは、実際に水の上を歩いて

来られたイエス様を信じ、その信じる心を(じつ)で表したのですから、最後までその心でイエス様と

繋がって行けば良かったのです。このことは、私たちの信仰姿勢に対して、強いメッセージがあり

ます。私たちは、主を信じた(じつ)を表して行くことにおいて臆病になってはいませんか。

私たちは、ただ「イエス様を信じました」と言うことだけが御国に繋がる保証だと思ったら大間違い

です。
確かに、イエス様は十字架の死によって、全ての罪人の贖いをして下さいました。そして、

その救いを信じたことによって、罪の問題は解決されました。しかし、その信仰だけが、御国に

繋がる保証ではありません。問題は、信じたあと、その(じつ)を表して行くかどうかです。

「私たちは、信じたなら信じた者としての行動をとり、その(じつ)を表さなければなりません。」

それは、持って生まれた性質、賜物、能力は一切関係ありません。確かに、持って生まれた能力に

差はあります。しかし、絶対主はその能力の如何によって人を計られるわけではありません。

絶対主が見られるのは、「信じたのなら、如何に絶対主を信じ続けて行くかどうか」という部分だけ

です。これが種まきのたとえで語られている部分です。即ち、信仰の(じつ)があるかどうかです。

絶対主が「わたしは出来る」と言われたなら、私たちは、「そのまま信じ喜んで受けとめて行く」

信仰の心を表して行くべきです。私たちがこの信仰の心を持って、初めて絶対主と繋がって行くの

です。


(結) イエス様は、「恐れてはいけません。ただ信じていなさい」と言われました。

「恐れる」ということは、自分自身に能力がないがために、「失敗したらどうしよう」という

気持ちを抱いて臆病風に吹かれることです。それは、「自分自身の能力の如何によってすべてが

決まる」と思っているからです。しかし、それは間違っています。クリスチャンにとっては、

「自分の能力の如何によるのではなく、全能の絶対主を信じるかどうか」によるのです。それは、

結果を出すのが、私たち自身ではなく絶対主だからです。だから、私たち自身に能力が無かった

としても、
絶対主には全能の力がありますから、弱い私たちにもやらせてもらうのです。

それなのに、自分には苦手だからといって、臆病になってやろうとしないのは間違っています。

この臆病な自分を信仰によって奮い立たせるのです。私たちには、(じつ)を表してくださる絶対主

がおられるのですから、私たちは大胆に絶対主を信じて行こうではありませんか。ペテロさんの

ように、
信じてからその(じつ)を失ってはいけません。どうか、最後まで信じる心の(じつ)を表し

続けて行きましょう。

                                  


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