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2019年2月3日
『わたしの心は定まりました

-イエス様のゲッセマネの祈りより-


ルカの福音書22:39~46


(起)ルカ22章42節イエス様のゲッセマネの祈りを通して「わたしの心は定まりました。

絶対主の御心のままに」という決断を、私たちも絶対主の前にはっきりと表す信仰を学んで行きたい

と思います。

(承) さて、ここには、十字架につかれる前のイエス様の苦しみ(もだ)えながら祈っている姿が

記録されています。その時、イエス様は、これから自分がどんな苦しい目に遭うのかお知りになり、

汗が血のしずくのように流れ、
「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯をわたしから取り除けて

下さい」
と、祈られました。これは、母マリヤの罪深い肉をお取りになった(ロマ8:3)、

イエス様の人の子としての祈りです。反対に、ヨハネの福音書6:38では、「わたしが天から

下ってきたのは、自分の思いのままを行うためではなく、
わたしを遣わされた方のみこころを行う

ため
です」と語っておられます。これは、絶対主の御子として、天にいたロゴスとしてのイエス様

力強い言葉です。
イエス様はこの二つの心を持っておられ、その板挟みの中で苦しみもだえられた

のです。しかも、このゲッセマネの祈りでは、絶対主の助けの声は一切かかりませんでした。

ですから、このような状況の中で、イエス様もマリヤの罪深い肉を持っていたため、この肉の思い

との戦いは避けられませんでした。そこで、一人この肉の苦しみに悶えながら戦い、同じ祈りを

三度もして、最後には、「分かりました。わたしは父の御心を行うために来たのですから、

もう自分の思いではなく、父の御心のままに歩みます。この先どうなろうが、それは父の御心

ですから、従います」と決断されたのです。イエス様は、十字架に対する恐怖心、これからやって

くる苦しみ、それを全部受け止めて、
人の贖いのための身代わりの死を受け留めて下さり、心を

定められた
のです。それは、まさに罪人の私たちが受けるべき苦しみでありました。

しかし、イエス様が父の命を受けて、
人の身代わりとなられる中での、御自身の心底からの父に

対する決断の定めをされた
のです。

(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちも「主に従います」と言いながら、「自分の肉の

思いを通したい」という心と、御霊の思いの板挟みの中で戦っています。そこで、本来ならば、

絶対主の御心のままに従うのか、絶対主の御心を拒否して自分の思い通りに歩むのか、その最終的な

決断をしなければならない(はず)ですが、その決断をせずに棚上げし、今日まではっきりした

信仰の決断をせずに来てしまっていることが問題です。私たちもイエス様がされたように、心の底

からの決断のために、自分に肉との戦いをしなければなりません。なぜなら、頭だけの決断は

すぐに消えてしまい、自分の決断を自分で翻すことになるからです。だから、頭だけの決断ではなく、

肉の心から決別したはっきりとした決意の決断をしなければなりません。そのはっきりとした決断を

するためには、まず絶対主の御心を明確に悟ることが必要です。
すなわち、ミュラーさんがやって

いたように、絶対主に向かって何度も祈り、聖書を読み、あらゆることの摂理を見て行くことに

よって、「絶対主の御心はこれだ」と確信して行くのです。
その確信を持つためには、自分の肉との

戦いは避けられません。たとえその決断が自分にとって不利な決断であったとしても、心には平安が

与えられるのです。絶対主に従うということは、自分にとっていいことばかりではありません。

時には、絶対主の判断にお委ねしたことによって、自分自身が願ってもいないような苦しい状況に

置かれる場合もあります。しかし、それが絶対主の御心であるならば、その苦しみの中を通って

行くことは幸いです。なぜなら、その
あとのことは、絶対主が責任を取って導いて下さるからです。

すなわち、
絶対主の御心に従ったことによって私たちが受けた災いや苦しみなどは、全て絶対主が

背負ってくださり、そして絶対主の懐に私たちを迎え入れて下さる
のです。ですから、自分自身に

降りかかってくるリスクを恐れて、自分の感情や肉の思いだけで逃げて行こうとしたり、

上っ(つら)な決断で誤魔化してはいけません。決断をするなら、「我が心定まれり」という明確な

決断をしなければならないのです。そのところまで来るには時間がかかる場合もあります。

イエス様でさえ三回も祈られたのです。そして、三回目の祈りでようやく、
「もう分かった。

わたしは父の御心を行うために来たのだから、父に従う。これからやってくる苦しみに耐えられるか

どうかも分からないが、自分はこれしかない」
と決められました。私たちも、イエス様と同じ

ところまで行くべきです。


(結) こういうわけで、私たちは、絶対主の御心のままに従うのか、自分の思い通りに歩むのか、

その決断をしなければなりません。その決断をいい加減にして、絶対主の思いと自分の思いの両方を

持ちながら、曖昧に流して行く事はいけません。ここまで来たら、私たちは最終的な決断をもって、

絶対主に生涯を懸けていくのか、曖昧にして日和見(ひよりみ)的なクリスチャンで行くのか、絶対主

の前に決める時です。そうしなければ、
艱難の中を通って行く本気の信仰は始まりません。

私たちには、イエス様がゲッセマネの園で苦しみから立ち上がられた祈りがありますから、その祈り

の故に救われた者として、私たちも、イエス様と同じ信仰の決断に立とうではありませんか。


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