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2019年2月10日
自分の罪を認め、主に頼り最後まで従っていく』

二人の強盗より-



ルカの福音書23:32~43


(起)キリストの両側に十字架に付けられた二人の強盗を通して、「自分の罪を認めた上で、

イエス様に頼って忠実に御心に従って行く信仰」を、学んで行きたいと思います。


(承) さて、イエス様が十字架につけられたとき、二人の強盗もイエス様と一緒に十字架に

つけられました。ここで注目 したいのは、二人の犯罪人のうち、「一人は地獄に行き、一人は

イエス様に覚えられてパラダイスに上げられた」ということです。これはえこひいきのように思え

ますが、イエス様が「一方の強盗だけをパラダイスに上げる」と言われた理由は、 どこにあった

のでしょうか。一つはっきりと言えることは、「二人とも同じ罪人であった」ということです。

それなのに、一方の 犯罪人だけが、イエス様のお心に留められました。本来なら、イエス様は

すべての人間の罪の代価を払うためにこの地上に来られたのですから、「どちらか一方だけの

人ための贖い」ということではなかったはずです。それなのに、天に上げられたのは一人だけ

でした。一体、二人の取り扱いを分けた理由は、どこにあったのでしょうか。それは、
一方は自分

が罪人であることを正直に認め、一方は 自分の罪を棚上げにしたこと
です。41節を見ますと、

一方の強盗は「俺たちは、自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」

と言っています。ところが、もう一方の強盗は、完全に自分の罪を棚に上げ、イエス様に対して、

「お前は救い主だろー。救い主だったら俺たちをここから救え」と暴言を吐いたのです。彼は自分が

罪人であることを認める遜りがありませんでした。しかし、最初の犯罪人は、「自分は罪を犯した

者だから、その罪の報いを受けるのは当然だ」と、
正直に自分が裁かれる者であることを認めました。

この違いが、同じ罪人でも、天に行く者と地獄に行く者を分けた理由です。


(転)では、自分が罪人であるということを本当に認めたかどうかというのは、どこを見て判断

されるのでしょうか。


それは、一番分かりやすいのは怒られた時です。怒られたとき、「自分が怒られるのは当然だ」

という意識を持つ者と、「何でそこまで言われなければならんの!」と、自分を守ろうとする人です。

ですから、怒られた時、その内容を全部そのまま自分の事として受け留める者と、もう一方は、

自分の罪を棚上げにして、他人を責めて悪態を吐きます。ここで分かるように、ここには大きな差が

あります。「自分が悪かった」と認めていた犯罪人は、反抗反発の心は出しません。むしろ顔つきも

柔らかく、心の底から謝る思いを表しました。このように心の底から謝ることをした人は、

絶対主が、「お前は自分の罪を正直に認めたのだからそれでいい。わたしは、お前のような

どうしようもない罪人を救うためにイエスを送ったのだ」と言って下さいます。こんな恵みの救い

は他にありません。しかしながら、聖書を読み続けて行くと、「自分の罪を認めるだけでは、

パラダイスに入れて頂けるようには到底思えません。」なぜなら、聖書には、「こうしなさい」、

「こうありなさい」と書いてある箇所がたくさんあるからです。だから、私たちは、「このままでは

いけない。聖書に書いてある通り『私が聖なる者であるから、あなた方も聖なる者でありなさい』

と、義人になるために努力しなければ救われない」と思ってしまうのです。ところが、聖書に

書いてある通りにやって行くだけの力は私たちにはありません。むしろ、信じてもなお罪を犯し

続けてしまう、情けない現実がいつも私たちの目の前にあります。すなわち、「自分は本当にどう

しようもない罪人のままだ」ということを、否応(いやおう)なしに見せつけられるのです。この現実は

実に否定のしようがない事実です。何故ならば、私たちは信じただけであって、自分は何もして

いないからです。しかし、そんな者でも、自分に出来ることがあれば、()らせて貰うのです。


それは、少なくとも罪の現実は正直に認め、自分の罪は棚上げせずに悔いて行くべきです。

このことをしたのが、パラダイスに上げられた罪人です。彼は、これから処刑されるだけで、

何も出来ませんでした。もし出来ることがあるとすれば、罪を認めて棚上げにしないことだけです。


しかし、私たちは、処刑されるわけではありません。だから、まだ生きている内に最低限自分に

出来ることがあれば遣らせて貰うのです。「自分は弱い者ですが、『やりなさい』と言われた事は、

絶対主に頼ってします」と。それは、義人となるためにすることでは なく、
イエス様の御陰で

パラダイスに入れられた者として、
今度は絶対主の助けを頂いて、一つでも二つでも主のために

するのです。それは、主のために苦手なことでもやろうとする事です。人間は誰でも弱さや苦手意識

を持っています。しかし、絶対主は先々のことも考え、こんな私たちでも逞しくさせたいのです。

絶対主は私たちに対して、将来どんな患難があっても主を信じ続け、多くの人たちを励まして行く

リーダーになって欲しいと願っておられます。となると、自分の苦手な所も通って行く前向き性が

必要です。この
忍耐強く我慢して行く経験こそ、これからの働きには大切です。

(結)こういうわけで、私たちは今もなお罪人の体と罪人の心を持っている者ですが、絶対主は

それを承知の上で、「少なくとも罪人である自覚を持って、最後まで従ってきてくれたらそれ

でいい」と言って下さるのです。ならば、私たちは、自分の弱さ、自分の罪を認めた上で、

「自分はこういう者ですが、イエス様に頼って何とか絶対主の御心のために従って行こう」という

前向きな心を表して行くべきでしょう。どうか、絶対主の心を受け留め、この道に一歩踏み出して

行こうではありませんか。


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