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2019年1月27日
絶対主の前に降参する』

取税人の祈りを通して-



ルカの福音書18:9~14



(起)ルカ18章9~14節の「取税人の祈り」を通して、「目を天に上げることもせず、胸を打ち

たたいて」「お手上げです」と降参し、「絶対主よ、罪人の私を憐れんで下さい」と、全面的に主に

依り頼んで、前向きにチャレンジしていく生き方を学んで行きたいと思います。


(承) さて、ここで「パリサイ人と取税人の祈り」の譬えが語られています。パリサイ人は、

「絶対主よ、私は貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、この取税人のような者でもないこと

を感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」と祈りました。

すなわち、
彼は、「自分は罪人ではない」ということを条件に、絶対主に近づこうとしたのです。

一方、取税人はどうでしょうか。彼は遠くに立ちながら、目を天に上げることもせず、胸を打ち続け

ながら、「絶対主様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈りました。すなわち、彼は、
「自分は本当に

どうしようもない罪人です」と、絶対主の前に悔いる心を表しただけ
です。しかし、イエス様は

この二人を比較して「絶対主に受け入れられる人は取税人であって、パリサイ人ではありません」

とはっきり言われたのです。ということは、私たちもこの取税人の側に立たなければ、絶対主に

受け入れられないということです。しかしながら、一般的には「この取税人のように、自分の心の中

の罪を見つめ、胸を打ち叩きながら悔いたとしても、ただ惨めさを覚えるだけで、そこに何の解決も

ありません。」ただ、どん詰まりになるだけだと思って、「それなら心の罪まで悔いても仕方がない。

心の中にはみんな罪があるのだから、心の中まで指摘し合ったら収拾がつかなくなってしまう。

だったら、心の中まで考えるのは止めよう」という方向に向かって行くのです。そして、ただ

このままではいけないから「前向きに反省し、ダメな自分から離れて、気持ちを新たにしてやって

行こう」と決意するのです。このやり方は、未信者もクリスチャンも同じようにやっています。

しかし、いくら反省し、新たな決意を抱いたとしても、その決意通りには生きて行けません。

ですから、私たちが、反省や新たな決意によって自分を変えて行きたいと期待しても無駄です。

心の中は決して変わらないからです。


(転)では、私たちクリスチャンはどのように歩んで行けば良いのでしょうか。

一言で言うならば、「まず取税人のように、悔いし砕かれた心を持ち、絶対主に全面的に頼って、

前向きにチャレンジしていくことです。」すなわち、
自分の罪の本質を見つめて悔い、「もう自分の

力では何もできません。反省して新たな決意を持っても、自分自身を改めて行くことはできません」

と、絶対主の前に降参することです。降参してしまうと、「自分は負け犬になってしまう」と思って

しまいます。しかし、聖書には、「絶対主は悔いし砕かれた心を蔑まれない」と書いてありますから、

絶対主は降参した者を覚えてくださり、「お前のどうにもならない罪のために、イエスをこの地上

に遣わしたのだ。そして、イエスはお前の罪の代価を払って命を落としたのだ。それが分かったら、

これからはイエスに頼って生きて行け。罪人の力を振り絞って道を切り開いて行くのではない、

ただキリスト・イエスを信じる信仰によって生きて行くのだ」と教えてくださるのです。

ということは、クリスチャンにとっては、降参したその先は、決してどん詰まりにはならないという

ことです。
降参したその先は、絶対主に頼って、絶対主の助けの中で歩んで行く道が開かれて

来ます
私たちは、この生き方に同意し、心を定めて行くのです。この道は「できる・できない」

の問題ではありません。
「自分の力では何もできない」ことが分かれば、あとは絶対主に頼って、

絶対主が言われるままに歩んで行くのみです


(結) 先ほどの取税人は、自分の胸を打ち叩いて、絶対主の前にどうにもならない自分を表した

だけです。すなわち、彼は降参したのです。その後のことはここには書いてありませんが、自分には

何もできないことが分かったのなら、あとは、「主に信頼せよ!主が成し遂げて下さる」と言われる、

イエス様に頼って、全力でついて行くのです。
これを貫いて行くのが、クリスチャンの生き方です。

そもそも、私たちが受け取ったイエス・キリストの救いは、「自分の力では罪の問題を解決できない」

という前提に立っての救いです。ならば、信じたその後の歩みも、
絶対主の前にお手上げし、

「自分には何もできません」と降参するのは当然
のことです。そして、次は絶対主に頼り、絶対主が

言われるままにやって行く
ことです。どうか、この方向に自分の意識を変えて下さい。クリスチャン

がこの生き方をして行くには、目には見えなくとも全面的に絶対主を信じてやって行く、勇気が

必要なのです。これが信じる信仰です。


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