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2019年1月13日
心の立ち位置を変えて

ルカの福音書12:49~53


(起) イエス様が、「地上に火を投げ込むために来たのです」と言われた言葉から、「この世の

常識や、この世のものの見方、考え方から離れ、絶対主の側で考えて生きる大胆な生き方をする」

ために、「世的な心の立ち位置を変えて、絶対主の国と絶対主の義を第一に求めて行く」ことを、

学んで行きたいと思います。


(承)さて、私たちが絶対主から頂いた救いは、この世の常識や考え方では理解できないものです。

なぜなら、「イエス・キリストが罪人の償いをしてくださった」という事から受け取る救いは、

この世にある救いとは全く次元の違う絶対主の側からの特別な救いだからです。この救いは、生まれ

ながらに罪深い人間が受け取れるような軽いものではありません。だから、初めて福音を聞いた時、

私たちは「キリストの十字架の償いで、自分は本当に救われるのか?信じれば正しい人間になれる

のか?自分はほんとに信じ続けて行くことができるのか?」と、いろいろ考え、なかなか信じること

ができませんでした。ところが、その自分の側からのものの見方、考え方から離れ、
絶対主の側から

見始めた時、罪人である人間に与えられようとする救いの重みが分かって来ました。
そして口先では

なく、心から「信じます」と告白することができたのです。このようにして、私たちは地上の次元

では考えられない救いを信じ受け取りました。ならば、私たちのそれ以後の生き方も、絶対主の側

からの見方、考え方に立ち、「絶対主の国と絶対主の義を、まず第一に求めて行く」生き方に変えて

いくべきです。しかしながら、このような考え方はこの世にはなく、人に理解して貰えるようなもの

ではありません。だから、この目に見えない絶対主を信じて行く生きかたは、たとえ家族であっても、

未信者には到底理解出来るものではありません。だから、その生き方を主張すると、この世の人々や、

家族にさえ対立と分裂が起こって来ます。しかし、それでも絶対主を第一にして行くという、この世

とは次元の違う生き方を、この世で通用するかどうかを試していく必要があります。少なくとも、

この生き方をジョージ・ミュラーさんは通しました。ですから、この生き方をする熱いクリスチャン

を、イエス様は「その火が燃えていたならと、どんなに願っていることか」と言われたのです。

それは、「
たとえこの地上にあって対立が起こったとしても、あくまで絶対主の側に立って生きる

ことを通して行くこと
」です。その生き方を馬鹿にする世の中にあっても、イエス様は「この生き方

を通す燃える心を持って欲しい」と願っておられるのです。だから、私たちはこの生き方を明確に

して行くべきです。


(転) では、明確に絶対主の側に立ち、絶対主の国と絶対主の義を第一にして行く生き方を始め

出して行くためには、どうしたらいいのでしょうか。それは、救いを受け取った時と同じように、

この世の常識や、この世のものの見方、考え方から離れることです。もし、信じた時、私たちの

心が罪のない人間に変えられていたら、私たちは当たり前のように絶対主の側に立ち、「絶対主の

国と絶対主の義をまず第一に求めて行く生き方」を始め出していたことでしょう。

しかし、現実は、信じてもなお、この世の常識や、この世のものの見方、考え方に立って生きよう

とする自分は消えていません。だから、現実の私たちは、「この世」と「絶対主」の考えの板挟み

になっています。しかし、その両方を追い求め、両方を重んじることはできませんので
「絶対主」

にウエイトを置いて、「絶対主の側で生きて行く」と決め、この生き方を始め出す勇気が必要です。


しかし、たとえ絶対主の側で生き始めたとしても、「この世のことは一切考えない」ということ

ではありません。私たちが世で生きている以上、世のことはまとわりついて来ます。しかしこの世

のことは、どこまでも拘り(こだわ)は捨てて行くべきです。そして、この生き方をして行く時、

人にムキになって向かって行くものでもありません。たとえ未信者であっても、むしろ相手を

重んじる心を表して行くべきです。この相手を重んじるということは、「この世」にウエイトを

置いていたらできないことです。なぜなら、この世は競争社会で、人に対して競争心が働きます

から、相手を重んじることは相手に勝たせることです。これは、この世に(こだわ)りを捨てた人

しか出来ません。
だから、「この世」と「絶対主」の二つが自分自身の目の前に置かれている状態

では、「絶対主」にウエイトを置き、世的な心の立ち位置を捨てて
、初めて人を重んじることが

できるようになります。そして、それがまた、絶対主を重んじることができるようになるのです。


(結) こういうわけですから、先程も申し上げたように、私たちは「この世」と「絶対主」の両方

を追い求めて行くことはできません。
だから、信仰によって絶対主の側に立ち位置を変え、絶対主

の側で考え判断し、生きて行くことの幸いを証しして行くのです。
すなわち、「絶対主の国と絶対主

の義をまず第一に求めて行く」という次元の違う生き方をこの世で通し、それが通用するという

ことを証しして行くのです。これが私たちに与えられた使命です。どうか、救いを受け取った時に

「自分は絶対主の側で生きる」と大胆に決心したように、信仰の歩みも心の立ち位置を変え、

絶対主の側に立って信仰を全うして行きましょう。



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