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2018年 NO.640


主に懸けて行く生涯の決断
「キリストがすべての人に代わって死なれたのは、生きている人々が二度と自分のために

生きるのではなく、
彼らのために死んで甦られたお方のために生きて行くためです」

                           (第Uコリント5:15)


 「キリストが、すべての人に代わって死なれたのは、クリスチャンが、二度と自分のために

生きるのではない」と、はっきり言われています。なぜなら、キリストの贖いがなければ、

「魔物を抱えていた人間は、一生涯の罪を背負って真っ逆さまにゲヘナに投げ落とされるだけ

だったのです。なのに、一生涯の罪も、キリストの贖いによって裁きの対象から除外され、

新しい命の中に歩むことが赦されました。
ですから、この救いを頂いた私たちは、二度と自分

のために生きて行くのではなく、私の罪の償いの為に死んで下さったキリストに懸けて行く

生涯を始め出すべき
です。それなのに、「未だに自分の感情に従い、自分のために生きようと

する」のは、なぜでしょう。その人のためには、キリストの贖いは無意味だったのでしょうか。

もし、キリストの贖いを信じているなら、なおも罪深い肉に望みを置いて生きて行くの

でしょうか? 御言は、「生きている人々が二度と自分のために生きるのではない」とあり

ます。私たちが、自分に望みを置くこと程、無意味なことはありません。なぜなら、死ぬまで

魔物から解放されることはないからです。だから、自分の思いを、自分の考え方を、自分の義

を、自分の感情を、自分の弁解を、自分の反発反抗を持ったままでは、絶対主に繋がり

ません。
この自我を砕いて、意志的に自我を否定しなければ、死ぬまで従うことができません。

  魔物は、度ある事に私たちに影響を及ぼし、落胆させ、イラつかせ、失望させます。たとえ

一時、自分の思い通りになって、いい気持ちにさせられても、すぐ力を落とすことが起こって

来ます。この世は人間の思い通りにはなりません。ですから、罪人が自分のために生きても、

なことはありません」。罪人に望みを置くこと程、空しいことはないのです。

しかし、私たちは、キリストの贖いによって、新しい命の中に歩む者とされました。それは、

どこまでもキリストに望みを置いて生きて行く人生です。この歩みは、たとえ魔物を抱えた

私たちでも、キリストの助けと、励ましを得て、絶対主のために懸けて行く人生を送れるの

です。地上で絶対主に懸けて行く人生を送った暁には、新しい命にふさわしい御霊の身体を

もらって、絶対主の民となり、もはや死もなく、悲しみもなく、叫びもない永遠の天の御国

の中に入れられるのです。


 ですから、二度と自分のために生きて行こうとせず、キリストに懸けて行くと定めましょう。

たとえ、魔物を(かか)えた私たちでも、キリストに懸けて行く」という自由意志は使えます。

しかし、その定めをしても、魔物の揺さ振りによって失敗し、挫折も味わうでしょう。

しかし、自由意志で定めた心は残ります。だから、どんなに揺さ振られても自分の定めの通り、

キリストに望みを置いて懸けて行くのです。魔物に遠慮することはありません。

自分の定めは、自分のものです。ですから、強く雄々しく、心を定めて、キリストに懸けて

行きましょう。

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