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2018年 NO.626


『信じたクリスチャンの罪人の立場』


 キリストの救いを信じたクリスチャンが、信じた後にやってくる悲しい現実があります。

クリスチャンは、キリストを信じると、世の世界では到底味わい知ることの出来ない恵みと

平安を味わいます。しかし、しばらくすると、生まれながらの 罪深い性質は何一つ変わって

おらず、以前のままの自分を見て落胆します。すると、「こんな罪深い自分でも天国に行ける

のだろうか」と、「苦しみチャン」になってしまう悲しい現実に陥ります。しかし、キリストの

救いを信じたという事実から離れることは出来ませんので、何とか絶対主の救いの中で安らぎを

得たいと、「もがき苦しむ」のです。その努力は、聖書に示された通り「あなた方を召して

下さった聖なる方にならって、あなた方自身も、あらゆる振る舞いにおいて聖なる者であり

なさい」(Tペテロ116)、という御言に達しようとする努力です。ところが、初めはその

つもりでやり始めるのですが、生まれながらの罪深い肉を持ったままの人間が、「出来るわけが

ありません」。いくら頑張っても、罪深い自分が根底から変えられなければ、聖書の基準に

達することは出来ません。その内、「もがき苦しむのを諦め、湖の底に 沈むしかない自分」に

気づきます。しかし、「沈んでしまったら、自分は終わりだ」と思い、沈んでいるにも

関わらず、「自分は努力しているから沈んではいない」と、粋がって偽善者振って行くのです。

 いったい、クリスチャンは、どうあるべきなのでしょうか?たとえキリストの御陰で

救われたとしても、クリスチャンは、一つも変わったわけではありません。それは、キリストの

救いを受けるために、ただ信じただけで、人間の方で何一つ 努力したわけでもありません。

ですから、信じる前の自分と、信じてからの自分に、何一つ変わりはないのです。となると、

「聖書の基準に達するために自分はどんな努力が出来るのか」というと、答えは「NO」です。

すると、私たちに残された現実は、「もがき苦しみ、力尽きて沈んでしまうだけ」です。

これが、クリスチャンの現実の姿です。しかし、絶対主は「まことに、あなたはいけにえを

喜ばれません
。全焼のいけにえを、望まれません。絶対主へのいけにえは砕かれた魂

砕かれた悔いた心。絶対主よ!あなたはそれをさげすまれません」(詩511617)、と詩篇で

語られました。それは、「生まれながらの罪人にとって出来ることは、自分の罪に対して正直に

なること」だけしかありません。すなわち、「自分は何の 努力も出来ない罪人です。湖の底に

沈むしかない者です」と悟ることです。すると、絶対主はその砕かれた魂をさげすむことなく、

「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」(詩375)というところから始めなさいと言って

下さるのです。絶対主は「心砕かれて、へり下った人と共に住む。へり下った人の霊を生かし、

砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ5715)とあるのです。ですから、私たちは、

「自分は湖の底に沈みました。もう罪人の自分は何も出来ません」と、本来の罪深い自分の場に

立ちましょう。そこから一歩が始まるのです。

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