人は、自分の意志に関係なく生まれ出て来ます。そして、生まれ出た時にオギャーと叫ぶ
ものごころ
声も、自分では全く意識していません。物心付いた時には親許にあって生かされ、自我の出
始めた13才頃に、ようやく自分の意志に基づいて主張を始めます。しかしながら、それまでは
自分が生きているという自覚さえも全くありませんでした。
ところが成人して社会に出た時、改めて自分の仕事の意味を現実的に考え出します。そし
て、「自分はいったい何をしたいのか」と。それまでは、ただ学校に通い、将来のための準備
だけに心を使っていました。しかし、イザ社会に出ると、自分の生き甲斐を感じる仕事に
就きたいと思うのですが、良く考えると、今まで一度も自分の命の意味について考えたこと
がありませんでした。ですから、理性的に考えても、「自分がどんな仕事に就くべきか」、
「自分の生きる目的は何か」、「何故自分は生きているのか」という答えが出て来ません。
もし仕事を選ぶなら、自分の命の存在の意味が選択の土台になるはずです。
しかし、これまで、「自分の命がどうして存在したのか」考えもしなかったのです。
それは、自分の命の誕生に関して、「一つも自分の考えや意思が関与しておらず、全く見覚え
のない中で生まれていた」からです。とすると、「このことが分からずして、どうして生き
甲斐のある仕事を選べるのか」と、人生最大の疑問にぶつかるのです。すると、聖書に
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(詩43:7)と記されていました。こんな表現に
よって人の命の存在について語られていたのは驚きです。なぜなら、そこに「わたしの目に
は」とか「わたしの栄光のために」と語られており、人の命を存在させた方の意思をそこに
見たからです。私たちは、自分の命の誕生を、この目で見ていません。しかし、「この命」
を誕生させた方がいることが分かるのです。なぜなら、「主よ、あなたの御業はなんと多い
ことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます」(詩104:24)と
あるように、人間の命の仕組みは驚くべき知恵に満ちています。それらを考えると、私たちは
決して自分勝手に生まれ出た命とは思えません。むしろ一人一人の命を価値ある者として存在
させた偉大な創造主がいるということが分かります。すると、私たちは「自分の命を与えて
下さった方の前に生きているのが分かります。」それなら、私たちは「私たちに命を与えて
生かして下さった創造主」の目的に添う生き方があるはずです。
ですから、人は、自分に対して生きるのではなく、命を与えて下さった絶対主に対して生きて
行くべきです。
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