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2018年 NO.658


信じた心の実践



 
人は何もやっていないようで、実は考えて行動している者です。なぜなら、心の中の

思いが外に顕れ、行動となって出てくるからです。それが口に出されなくても、顔付きや、

顔色に出て顕れて来ます。「何も行動しないことも心の顕れであり、行動することも心の

顕れです。」ですから、絶対主は信じた者が、心の中にどのような思いを入れて行動する

かを、いつも見ておられるのです。なぜなら、「人はその外側を見るが、絶対主は心を

見る」
とあるからです。ですから、その人の行動が、絶対主を信じるところから出る心で

あるなら、絶対主は喜ばれます。しかし、絶対主を信じ切る勇気がなく、いつも尻込みして

心を顕さず、ただ口先だけで信じている者のように装っていても、心を見られる絶対主は、

その人に感心を持たれません。なぜなら、絶対主との交わりとは、絶対主の心を汲み、

絶対主の気持ちを汲んだ心遣いに立ったところに、交わりの土台があるからです。たとえ

未信者であっても、絶対主を信じる者に心を掛け、その者に心遣いを顕した者には、

絶対主は放っておかれません。それは「水一杯の行為」として、天に繋がっていくから

です。このように、「人は心を使う人格を持った人間として、創られました」。だから、

誰でも心はあるのです。しかし、「心のない人だ」と揶揄(やゆ)(からかう)される人が

いても、その人に心が存在していない訳ではありません。ただ、その心を自分の為には

使っても、人の為に使わないから、そのように批難されるのです。

 「心を使う」とは、相手が何を考えているかを考える「心遣い」から始まります。多く

の人は、生まれながらに自律心が強く、自分の為には心を使いますが、他人の為に心を

使おうとはしません。他人の為に心を使うにはエネルギーがいるからです。ですから、

人の為に心を使うには「決断とエネルギー」がいります。また、「信仰」のために心を

使うのも「決断とエネルギー」がいります。まして「絶対主」に向かって心を使うには、

尚更、「決断とエネルギー」がいります。だからこそ、絶対主は、その人の心を見て、

その心をどのように顕すかをご覧になっているのです。

 私たちの信じる心に伴う行動は、「従う」と決めた定めがあって顕れてくるのです。

だから、「従うと定める」心のエネルギーは、その人の信仰による純粋な心のエネルギー

がなければ出て来ません。それ故に、「信仰の表現」は純粋であるが故に、尊いのです。


このような訳で、クリスチャンが心を伴わずして、たとえ「自分を砕きます」、「従って

行きます」と決断しても、頭だけの表明になり、「自分を砕いた」ことにはなりません。

ですから、「信仰」とは、「信じた心の実践」があって「信仰がある」と言えます。

口だけの表明は形に顕れていませんので、「信じる心のエネルギーがあるのかないのか」

分かりません。私たちは、「信じた心の実践」を通して絶対主への信じる者の本気を

顕して行きましょう。


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