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2018年9月23日

イエス様は、どんなことでも出来るお方である

マタイの福音書14:13~21


(起)マタイの福音書14章の「五つのパンと、二匹の魚を差し出した記事」を通して、「人間が

積極的に行動を取れば、イエス様もそれに答えて下さる」という教えではなく、初めからイエス様は、

5000人の人々に食べさせようと決めておられたことに注目して、人の力の混ぜ物の信仰ではなく、

「イエス様は、どんなことでも出来るお方である」という信頼から、私たちの行動を表して行くことを

学んで行きたいと思います。


(承) さて、この箇所を用いて語られる一般的なメッセージは、少年が差し出したものを、「主は

祝して、大いなる業をなされたのだ。」と、語られます。すなわち、「イエス様は、取るに足らない

少年の心を汲んで、五つのパンと二匹の魚を祝福し、五千人を養われたのだから、私たちも、取るに

足らない弱い人間であっても、イエス様に献身すれば、イエス様は私たちを使って栄光を表して

下さいます」というメッセージとして語られます。確かに、そのようなメッセージを聞けば皆励まさ

れるでしょう。しかし、この記事を通して読み取るべき真理はそこではありません。

むしろ、「五つのパンと二匹の魚で何になりましょうか」(ヨハネの福音書6:9)とアンデレが

言ったその言葉に真理があります。イエス様から、「あなた方が彼らに食物をあげなさい」と言われ、

弟子たちはとりあえず少年が持っていた五つのパンと二匹の魚をそこに持って来ましたが、「こんな

大勢の人たちに対して、これが何になりますか」と言ったのです。実は、イエス様はその言葉を

弟子たちから引き出し、「私たちに何ができるでしょうか。私たちには何の力もありません」という

自覚を持たせるために、あえて「あなた方が彼らに食物をあげなさい」と言われたのです。

しかし、
「イエス様は、初めからご自分がしようとすることを決めておられた」ので、その五つの

パンと二匹の魚を祝福し、栄光を表わそうと決めておられました。ということは、ここでイエス様が

弟子たちに一番分らせたかったことは、
「人間の力では何もできない。しかし、わたしには、どんな

ことでもできるのです」
ということを分からせる学びであったのです。

(転) では、この箇所から初めにお話ししたように、「私たちのような、取るに足らない人間でも、

イエス様に差し出せば、イエス様は私たちを使って栄光を表して下さる」と捉えた場合はどう

でしょうか。私たちは、「まずは自分が行動をとることだ。そうすれば絶対主が動いて下さる」

という方向に向かうでしょう。実は、それが律法主義の混ぜ物の信仰なのです。人間は、自分の力を

表して結果を出すことが好きです。しかし、本当にそうであるなら、イエス様が人間の為に死な

なくても、人間は自分の力によって救いを獲得すれば良かったのです。しかし、人間の内には、

生まれながらに魔物が住んでいます。すなわち、罪の中に死んでいた者です。そんな人間に、

イエス様は期待できるでしょうか?私たちは、罪の中でどうにもならなかったのです。ですから、

イエス様は、まずそのことを自覚するように、弟子たちを試みられたのです。すなわち、「人間は、

自分の力に頼って、誇れる者は何もない」ことを悟るべきです。その上で、イエス様が私たちを

哀れんで、「私に従って来なさい」と言われました。「従う」ことは、私たちが何かすることでは

ありません。
「人には出来ないことを、イエス様がして下さる」ことを信じて、どこまでもイエス様

に信頼して行く者となっていくことです。
それなのに、クリスチャンの多くは、「自分の肉の力と

絶対主の力を合わせて、栄光を表して行こう」と考えているのです。しかも、「私たちが、自分自身

の積極的な行動や、自分自身の熱意を絶対主の前に表せば、絶対主が動いて下さる」と思っている

のです。それは大間違いです。いくら絶対主の前に自分の心を定めたとしても、それを実現する力は

罪人にはありません。ですから、どこまでいっても、「絶対主はおできになる。だから、まず絶対主

にあってさせて頂きたいのです」というへりくだった思いが先行していなければなりません。

しかしながら、「自分を差し出します。ですから私を使って下さい」という心を持つことは、決して

悪いわけではありません。ただ、そのときに、「自分自身の力で絶対主の働きに貢献する」という

ような気持ちは、自分の内に魔物がいることを見ていないことですから傲慢になります。

 いくら自分自身を犠牲にしても、私たちは罪人ですから、絶対主にやっていただかなければ結果は

出ません。すなわち、私たちには、御霊の働きがなければ、主の栄光は表されないのです。という

ことは、
私たちは常に「自分ではない、聖霊さまに働いて頂くのだ」というへりくだりを前提にして

いなければならないのです。
すなわち、「イエス様はおできになるのですから、どんなことも主に

あってやらせて下さい」という気持ちが大切です。家のことも、仕事も、学業も、何もかも、自分の

力で結果を出そうとしてはいけません。地上での生涯、すべてのことを、私たちは主にあって

やらせていただくのです。


(結) 私たちは、いくら祈っても、いくら積極的に行動しても、それで結果を出るせわけではあり

ません。しかし、イエス様はおできになります。だから、「砕かれた心」を持つことが、私たちの

信仰の土台です。そうでないとクリスチャンの信仰は成り立ちません。
自分の努力に頼って行けば、

「結局は自分でやらないとダメなのか」と思うようになり、できない自分に失望し、信仰が張り

裂けてしまいます。私たちは、そんな混ぜ物の信仰ではなく、「絶対主はおできになるのですから、

主にあってやらせて下さい」という一心に立ちましょう。
そして、聖霊さまの働きを通して絶対主の

栄光を表して行きましょう。 
 

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