教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2018年9月30日

絶対主は出来る』という根拠のもとで

マタイの福音書19:16~26


(起)マタイ19章26節の御言葉から、「『絶対主はできる』という根拠のもとで、絶対主を

信じて行く」ということを学び、地上にあって、「絶対主の国と絶対主の義を、まず第一に求めて

行く」ということを学びたいと思います。


(承)さて、ある金持ちの青年がイエス様の所にやって来ました。そして、「永遠のいのちを

受けるためには、どんな良い事をしたらいいのでしょうか」と尋ねました。イエス様は、「『殺すな。

姦淫するな。盗むな。偽証を立てるな。父と母を敬え。』『あなたの隣り人を愛せよ。』と言われ、

この戒めを守りなさい」と答えられました。すると、青年は、「それなら、みな若い時から守って

きました」と答えました。しかし、本来なら人間は皆、心の内に魔物を抱えていますので、その

ように言い切ることは出来ません。だから、彼の「守ってきた」という感覚は、どこまでも 

自分勝手な魔物を抱えた罪人がそう言っているだけのことであって、実際は非常に身勝手な言い

切りです。 

 例えば、イエス様は、「殺すな」という戒めについて、「人に『馬鹿者』と言ったら、それも

殺すことと同じだ」と言われました。そのことを考えたら、私たちは今までどれだけの人を殺して

きたでしょうか。「馬鹿者」と言うだけなら、まだしも、あえて相手が一番傷付く言葉を選んで

口に出してきた者です。それを、「自分は具体的に人を殺してはいないから、『殺すな』という

戒めを守ってきました」と言い切るのは、絶対主の前の思い上がりです。だから、どこまでいっても

私たちは罪人ですので、「自分は戒めを守ってきました。何か足りないものはありますか」と言える

ような者ではありません。すなわち、幾ら「戒めを守ってきた」としても、この青年のように、

「永遠の命を受ける為には、どんな良いことをしたら良いのでしょうか」と、尋ねなければならない

不安があるはずです。
人の心は、どこまでも良いことをしてきたとしても、確信を持てないのが

現実です。それは、自分の中に魔物を抱えている証明です。
だから、すべての人間が、自分の行い

で永遠の救いを手にすることのできないということは 明白です。しかし、その事実を青年が認め

なかったが故に、イエス様は、あえて「あなたに一つ足りないものがある。あなたの持ち物を売り、

貧しい人々に施しなさい」と言われたのです。これは、金持ちの彼にとって一番厳しい戒め

でしょう。なぜなら、金持ちというのは、地上で特権を持っているのです。だから、地上の特権を

全部捨てしまったら、天のことまで求めていく余裕はありません。だから、青年はその場から

去って行ったのです。そこで、イエス様は、「富んでいる者が天の御国に入るのは、らくだが針の

穴を通るより難しい」と言われました。しかし、「金持ちが天の御国に入ることは、絶対にできない

か」というと、そうとも限りません。その人の内に絶対主が働かれれば、金持ちであっても可能性

はあります。その証が、ザアカイさんです。しかし、それは人の力によるものではなく、上からの

働きかけがあって初めて起こり得ることです。それは、
「人にはできないことが、絶対主にはできる」

からです。


(転) さて、このことは、私たちの信仰においても言えます。私たちはいつも自分ばかり見て、

「自分が何とかしなくてはいけない」、「自分の力で結果を出さなければならない」と考えてしまい

ます。しかし、そこが間違っているのです。なぜなら、自分自身に根拠を置いて、自分の力で結果を

出そうとしても、私たちにはそんな力はありません。なぜなら、私たちの内には魔物がいますから、

「信仰を守り続けて行きます」と言ったとしても、それを実現する力は私たちにはありません。

私たちがここまで信仰を守り続けて来れたのは、御霊さまの助けと絶対主のお許しがあったから

です。「これから先、自分の力だけで信仰を守り続けて行くことができるか」といえば、それは

不可能です。しかし、
「人にはできないことが、絶対主にはできる」とイエス様は言われました。

すなわち、人間には不可能であっても、絶対主にはできるということです。だから、私たちは、

自分自身に根拠を置くのではなく、「絶対主にはできる」という、そこだけに根拠を置いて意識

して歩んで行くべきです。すなわち、「自分は信じているから、絶対主を信じていける」のでは

なく、「絶対主は何でもできるから、信じて行くのだ」と考え方を変えるべきです。もし、

「自分は信じているから、絶対主を信じて行く」という、自分に根拠を置いた信仰なら、自分が

崩れた瞬間に信じる信仰もゼロになってしまいます。だから、根拠を置く所が間違っているのです。

私たちは、もう自分自身を見切って、絶対主だけに目を向けるべきです。どこまでいっても、

私たちは、「絶対主はできる」という根拠のもとで、絶対主を信じて行くのです。


(結)どうか、今日から私たちの考え方の土台を変えましょう。「私たちにはできません。

でも、絶対主にはできます。」だから、私たちは絶対主を信頼し、何でもやって行くのです。

クリスチャンはそこだけに焦点を合わせて行くべきです。そして、地上にあって、
「絶対主だけを

追い求め、絶対主の国と絶対主の義を、どこまでも、まず第一に求めて行くのです。」
この生き方

が通用することを、私たちはこれから大胆に証しして行くのです。どうか、一人一人がその歩みを

始め出し、信じる者の内に働く全能の力が、どんなに素晴らしいかを味わわさせて頂きましょう。



 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室