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2018年12月23日
 クリスマスメッセージ 

損得抜きで従って行く生き方


ルカの福音書1:5~56


(起)エリサベツとマリヤへの主の御告げから、「絶対主の前に純な信仰を持って、損得抜きで

従って行く生き方」を学んで行きたいと思います。


(承) さて、まず最初に、エリサベツに対して御告げがありました。エリサベツの夫ザカリヤの

前に御使いが現れ、「あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名付けな

さい」と言われたのです。エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がありませんでした。

エリザベツにとって、子を生めないということは、子孫を残す女の努めを果たすことが出来ず、

「この家の家系は自分の代で断たれてしまう」という負い目をずっと負っていたのです。

ところが、そのような恥を忍んできたエリザベツにとって、この突然の御告げは、彼女にとって

非常に喜ばしいことだったのです。損得で言えば、彼女にとっては得しかありません。ところが、

マリヤの場合はどうだったのでしょう。ある日突然、御使いが現れ、「あなたはみごもって男の子

を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」と告げられました。マリヤは、ヨセフと婚約は

していましたが、結婚はまだでした。ですから、その時点で身重になるということは、婚約の相手

を裏切ることになります。と同時に、当時は、結婚していない女が身ごもることは石打の刑に

あたる罪とされていました。ですから、周りの者から厳しい目で見られる内容であったことでしょう。

だから、マリヤにとってこの御告げは、人間的な利害では、損でしかありません。ところが、マリヤは

「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と言って、主の御告げを受け

入れたのです。彼女がこのように言えたのは、彼女の中に「絶対主がお求めになられたら、

私はそれに従います」という、絶対主に対して損得なしの純な心を持っていた女性であった

からでしょう。


(転) では、私たちはどうでしょうか。マリヤのように、自分自身を絶対主に明け渡し、損得

抜きで従って行く心を持っているでしょうか。いいえ、むしろ損得の思いに強く支配されて

しまっています。私たちは、これまでの学びの中で、「自分の我を砕いて、絶対主に従う素直な

心を持っていくように」と学んできました。しかしながら、未だに その定めができずに、

迷いの中にあります。もし、この定めがあれば、それは外側に行動となって表れて来るはずです。

と同時に、私たち自身の心も変わってくるでしょう。しかし、祈りの中では、「主に明け渡します。

主に従います」と言いながら、実際には何も変わっていないのが現実です。その原因は何で

しょうか?それは、私たちの内に純な心の定めを否定し、純な心を馬鹿にする魔物の声が働いて

いるからです。そこで、私たちが尚その魔物の声を聞き、その声を肯定していくなら、絶対主への

純な信仰は、消え去っていきます。また、「自分自身を明け渡し、絶対主に従って行く」という

心の定めは、永久に出来ないでしょう。だから、私たちは、この魔物の心を否定し、「自分の強い

肉の我から、聖書にはこうあるから、それでいい」という考え方に取り替えていくべきです。

それが、私たちの信仰の土台だからです。
なぜなら、クリスチャンが絶対主に従う生き方は、

自分中心の考えから、絶対主中心に替えていく生き方だからです。
これは、損得抜きの純な生き方

です。私たちは、これ以上、魔物の声を聞いて、地上の損得の思いをいつも自分自身の心の中に

温存していたら、未信者の世界に逆戻りすることになってしまいます。このことは、私たちの救い

がなし崩しになってしまうと言うことです。それは、エバの時のように、悪霊がより強く働き、

純な世界に入ることを馬鹿にして誘惑し、エデンから追い出されてしまうことになりかねません。

しかし、これは決して乗り越えられないものではありません。なぜなら、私たちには信仰による

自由意思が与えられているからです。絶対主は、いつでも、その人の自由意志で物事を決める自由

を与えられています。ならば、純な心を否定する魔物の心を無視し、良い意味で見栄を張って純な

心を通していく信仰の意志を働かせてもいいのです。昔から、「正直者は馬鹿を見る」と言われて

いますが、この損得の激しい世の中では、純な生き方は通用しないかも知れません。しかし、

クリスチャンは、御利益中心の世の中で絶対主を信じると決めた者です。ならば、
その純な

生き方が通用するかどうか試すのが信仰の醍醐味です。


(結) 私たちは、魔物の心を消すことはできなくても、無視する自由意志はあります。

無視したからといって、もうその声がなくなるかというと、そういうわけではありません。

しかし、「魔物の声に捕われたくない」という私たちの 信仰の意思が、絶対主に対する信仰の

決断の心を持たせるのです。ですから、どうか、魔物の声を無視し、絶対主の前に純な信仰を持って、

損得抜きで従って行く生き方を始め出そうではありませんか。



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