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2017年5月7日

自分の主権を明け渡し、絶対主の主権に従う

マルコの福音書14:26~42


(起)イエス様のゲッセマネの祈りの記事から、「自分の主権を明け渡し、絶対主の主権に従う」

ということを学びたいと思います。

(承) さて、33節から見て行きますと、イエス様はゲッセマネの園に行かれると、怯え、

苦しみもだえて、地にひれ伏し、「もしできることなら、この時を、わたしから過ぎ去らせて

下さるように」と、繰り返し祈られました。これは、イエス様が、人間と同じ肉を持ったこと

から出た恐れの心です。この時、イエス様は父の御心に従って行く心と、自分の肉の思いの

板挟みの中にありました。もしイエス様が、肉の思い、肉の主権に立たれたなら、「わたしは

十字架に向かうことができません」と言って、天の十二軍団の御使いを遣わし、祭司長、

律法学者たちを退けられたかも知れません。しかしイエス様は、「自分の思いではなく、父の

御心を行ってください」と祈られ、最後には、心を定めて立ち上がられました。だから、「この

杯をわたしから取り除けて下さい」という恐れの心から勝利されたのです。祈りの初めの頃は、

まだ両方の思いがイエス様の心の中でせめぎ合っていました。しかし、祈りの戦いによって、

自分の肉の主権を明け渡し、絶対主の主権に立たれたのです。これは、心の葛藤を祈りを通して

父に従う心に定められたイエス様の証です。

 ところが、大祭司の中庭で、同じ恐れの心を持ったペテロの場合はどうだったでしょうか。

初めは、勇ましく「たとえ、あなたと一緒に死ななければならなくても、あなたを知らない

などとは、決して申しません」と、力を込めて言っていました。しかし実際は、死を共にする

どころか、イエス様の目の前で「私はその人を知らない」と三度も言ってしまったのです。

結局、ペテロは自分の肉の主権に従って、イエス様を裏切ることになりました。ここに、自分

の主権を働かせるか、明け渡して主人に従うか、という大きな違いがあります。

(転) では、私たちの場合、「絶対主のお考えに従うか、自分の肉の思いに従うか」という

選択をしなければならない時、イエス様と同じように、「自分の主権を明け渡し、絶対主の

お考えに従う」という選択をしているでしょうか。本来なら、私たちはイエス様のように、

自分の主権を絶対主に明け渡し、絶対主に従うということを、当たり前のようにして行かな

ければなりません。なぜなら、私たちは絶対主の手によって造られた被造物です。被造物に

主権はありません。だから、私たちはそれが分かった時点で、自分の主権を完璧に明け渡し、

絶対主の主権に従うべきなのです。では、自分の主権を明け渡し、絶対主の主権に従う心とは、

どのような心でしょうか。それは、エデンの園で生活していたアダムとエバが、善悪を知る

木の実を食べる前の彼らの心です。彼らは、善悪を知る木の実を食べる前は、エデンの園で

楽しく生活し、ただ絶対主の言われることをそのまま聞き、絶対主が整えて下さった環境の中で、

それを喜んで味わって行くだけで良かったのです。そこに自分の考えや自分の主権を表す必要も

ありませんでした。ところが、サタンに騙され、「
それを食べると絶対主のように賢くなる

と言われて、食べてはいけない善悪を知る木の実を食べたことによって、
ルシファーのように

悪賢さを身に着けたのです
。それ以来、「自分にとって、この方が得だろう」とか、「苦しん

でまで、したくない」とか、全てを自分中心に物事を考え、絶対主に栄光を帰すより、自分が

栄光を受け取るように、考えるようになってしまったのです。そしてここから、自分で判断し、

自分が主権を持つようになったのです。しかし、その考え、知恵というものは、サタンに

よって騙されて掴んだものですから、そこにはずる賢さしかありません。私たちは、このアダム

の罪を受け継いでいますので、いくら自分の頭で考えて知恵を働かせても、自分の損得に立った

ずる賢い判断しかできないのです。だから、自分が嫌だと思った時には、「嫌なものは嫌」と

言って、人を裏切ってでも自分の思いを立て、自分の主権を立てようとして来たのです。

 しかし、全く知恵を使ってはいけないというわけではありません。聖書には、「主を恐れる

ことが知恵の初めである」とあるように、知恵を使うにしても、絶対主の主権の中で考えて

行くなら、絶対主の御心にあって判断して行くでしょう。イエス様も、肉を取られましたが、

絶対主から離れて判断をされませんでした。いつも、絶対主の主権の中で、従う判断をされて

行きました。私たちは、その知恵の使い方を学ばなければなりません。それを学ぶためには、

そのように知恵を使っている人から、まず学んで行くことです。その訓練を通して、絶対主に

あって知恵を使うということが段々分かってきます。それが身につけば、イエス様のように、

絶対主の主権に従った正しい判断ができるようになって行くのです。

(結) ですから、私たちは自分の主権を明け渡すべきです。もし自分の主権に立てば、

私たちはペテロと同じように自分中心に自分を守ることだけを考え、失敗し、絶対主を裏切る

だけになってしまいます。私たちの行くべき道は、絶対主の主権に従うことです。それは、

自分のわがまま、自分の肉の思い、自分の肉の考えを通そうとする、その主権を明け渡す

ところから始まります。どうか、
自分の主権を明け渡し、「絶対主の主権に従い、絶対主の

御心のままに歩んで行く」
と定めて下さい。そして、絶対主にあって知恵を使い(即ち霊的に

考え)、判断して行くことを学んで、一歩一歩霊的に成長して、前に進んで行こうではあり

ませんか。 
                  
 


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