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2017年4月30日



絶対主に懸けるとはどういうことか

マルコの福音書10:17~31

(起)  金持ちの青年の記事から、「絶対主に懸けるとはどういうことか」ということを、改めて

学んで行きたいと思います。

(承)さて、ある金持ちの青年が、「永遠の命を受けるために、何をしたら良いでしょうか」と

イエス様に聞きました。この時代は、まだイエス様が十字架にかかっておりませんので、

「御子の贖いによって救われる」という考えは、まだ明らかにされておらず、「旧約聖書に

記されているモーセの律法を守ることによって幸いを得る」という考え方が一般的でした。

ところが、律法をことごとく守って行くことは、実際には不可能です。それは、知らずに犯して

しまう罪があるからです。例えば、動物の死体を知らずに触れてしまった後で、汚れを清めずに

食事を取ったならば、律法の戒めに反することになります。となると、人間は「律法を犯した

ことはない」とは言い切れず、全てを守っているという確信は持てません。

だから、「永遠の命を受けるために、何をしたら良いでしょうか」という分かり切った質問も、

あえてしなければならない弱みを人間は持っていたのです。すべてを守ってきたと言い切れない

者にとって、「少なくとも、何をやればいいのでしょうか」という、切羽詰まった質問を青年が

したのです。そこでイエス様が、「戒めなら、聖書に書いてあるとおりです」と言って、モーセ

の十戒について語られると、青年は、「それらの事はみな、小さい時から守っております」と

答えました。するとイエス様は、「あなたに足りないことが一つあります」と言われ、「あなた

の持っている物は何でも売って、貧しい人々に与えなさい。そして、十字架を負ってわたしに

従って来なさい」と言われました。財産は、この地上で幸いを得るための裏付けとなるものです。

しかしイエス様は、「それを全部売ってしまいなさい」と言われたのです。この「自分の十字架

を負ってわたしに従って来なさい」という意味は、
「身一つで従って来なさい」ということです。

ということは、ここでイエス様が言いたかったことは、
「絶対主の国を目指すなら、この地上で

どういう戒めを守るのかということではなく、絶対主にすべてを懸けて行くことだ」と言われた

のです。


(転) しかしながら、私たちも子供の頃からの教育では、「良きものは、自分の行いや努力に

よって手に入れなさい」と教えられて来ました。この青年と同じように、「何をしたらいいか、

どんな行いをすればいいか」と、いつも頭で考えて来たのです。私たちは、そのための教育を

幼児の頃から受け、学業を積んできました。普通なら、その教育によって、良りよい知性を持ち、

罪を犯さない人間となっていたはずです。そして、悪いことを一切考えず、正しいことしか考え

ない人間になっていてもよかったはずです。しかし、現実はそうではありません。私たちは、

いくら良い教育を受けても、また自分の頭で良きことを考え、良いことをしようとしても、罪を

犯してしまうのです。それは、私たちの知性が既に堕落しているという現実があるからです。

私たちが生まれる前から、考える知性が既に罪の中にありました。

  トマス・アクィナスというカトリックの神学者は、
「人間の意志は堕落したが、人間の知性は

堕落していない」
と言いました。しかし、それは間違っています。私たちは、生まれながらに

アダムとエバの罪を受け継いでいる罪人ですから、「私はもう二度と悪いことをしません。

絶対主に従います」と考えても実行できない人間です。なぜなら、「その口が乾く前に、罪を

犯してしまいますから。」ですから、自分で考えた知性では、絶対主の御心に適った歩みをする

ことはできません。では、私たちはどうしたら良いのでしょうか。答えは、絶対主に懸けて行く

ことです。人間の強い決意でも、失敗します。ならば、
すべてを「絶対主に懸けて行く」という

生き方しか残りません。それは、聖書に書いてある通りの生き方に懸けて行くということ
です。

聖書に書いてあることをそのまま信じ、その通り行って行くのです。

そこに、自分勝手なアレンジを加えたり、自分勝手な先入観は捨てることです。


(結) こういうわけで、私たちが自分の頭に頼って「自分はこれから絶対主の御心に適うこと

をして行くのだ」という決心をしても無意味です。私たちに何かできることがあるとしたら、

自分で考えず、「絶対主に懸けて行くことだけ」です。それは、
「絶対主だけに信頼し、聖書の

言葉に望みを置いて行く」
ということです。自分の考えに望みを置いても無駄です。

イエス様は、「身一つで従って来なさい」と言われました。身一つですから、自分に頼る者は

一つもありません。財産も自分の知性も無駄です。ただ、イエス様にお任せし、全てイエス様の

後に付いて行くのです。「絶対主に懸ける」とは、そういうことです。だから、もう自分の判断

に頼らないで、身一つで絶対主に従って行く心を持って、始め出しましょう。そして、私たちの

残りの生涯を、絶対主に懸けた人生にしようではありませんか。


 


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