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2017年5月14日

肉の性質に訴えてくるサタンを退け、    
      恵みによって強くされ、絶対主に懸けて行く人生


第Ⅱテモテ2:1~8


(起) 第Ⅱテモテ2:1の「キリスト・イエスにある恵みによって、強くされなさい」という

御言葉から、「クリスチャンの肉の性質に訴え掛けてくるサタンを退け、キリストにある恵みに

よって強くされて、絶対主に懸けて行く人生」を学んで行きたいと思います。

(承) さて、先週は、「絶対主に懸け行く人生とは、自分の主権を絶対主に明け渡すことから

始まって行く」ということを学びました。そこで、このメッセージを聞いた直後は、「その通りだ

と同意して、これからはもう、自分の主権は絶対主に明け渡し、絶対主を第一にして行こう」

という気持ちになって行きました。しかし、メッセージを聞いて2~3日すると、また弱い自分

の肉の性質に引き戻されて、なかなかその道に踏み出すことができないという問題が浮き彫りに

なってきました。そこでその原因を調べていくと、
知らないうちにサタンの訴えの餌食になって

いる自分がいることが分かった
のです。そして、知らない内に自分の弱い肉の虜になっていたの

でした。これは、実に巧妙な悪霊の働きあるからです。それは、黙示録12:10に、「・・・我ら

の兄弟らを訴える者、日夜、我らの絶対主の御前で、兄弟たちを訴える者が投げ落とされた」

とあるように、地に落とされたサタン即ちルシファーがいつも私たちを巧妙に訴え続けていた

からでした。実際、私たちは生まれながらに肉の弱さを持っています。イエス様を信じてその

救いに預ったにも関わらず、依然として、生まれながらの肉の性質は取り去られていません。

それは、主の現れの時まで待たなければならないからです。(ロマ1311)その時には、御霊の

体に変えられ、罪から完全に解放されます。しかし、その時までは肉の弱さを持った中で主に

仕えて行く者であるため、サタンは「お前は本当に、絶対主に懸けて行くことができるのか。

生まれながらの肉の性質は変わっていないだろう」と言って訴え続けてきます。それを言われる

と、確かにその通りですから、認めざるを得ません。ですから、つい「やっぱり私は駄目なんだ」

と罠にはまり、自分の肉の弱さを見せつけられ、「絶対主に懸けて行けるような者ではない」と

弱気になり、「自分に出来るわけがない、決心しても、またすぐに失敗するだけだ、今までも、

何度失敗してきたことか」と諦めさせられてしまうのです。本来の私たちは、イエス様の贖いに

よって、罪から救い出され、絶対主と繋がる者となり、イエス様にあって生きる者とされたのです。

しかし、その恵みを否定し馬鹿にするのが、ルシファーの企みです。私たちは、いつもその

ルシファーのささやきの声に騙されては、気を挫かれてしまうのです。


(転) では、その悪霊に対して、私たちはどのように対処したら良いのでしょうか。

第Ⅰペテロ5:8~9を見ると、「・・・あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、

食い尽くすべきものを求めて歩き回っています。この悪魔に立ち向いなさい。主を信じ仰ぐ心に

堅く立って、戦いなさい」とあります。
私たちは、主を信じ仰ぐ心に堅く立って、この悪魔に

こう言うべきです。「絶対主に逆らって傲慢になり、燃えるゲヘナの火に投げ込まれるお前に

言われる筋合いはない。イエス様は私のために来て下さり、私の罪の贖いを全部して下さった。

私はそのイエス様にあって生きている者だから、お前の言うことに耳を傾けない。お前は絶対主に

心を向けないで、人の方に心を向けている。サタンよ!引き下がれ。」
と言って、ルシファーの

訴えかけを退ければ良いのです。そうすれば、私たちはキリスト・イエスを信じる信仰の世界で

生きて行くことができます。ルシファーは絶対主に逆らったものですから、最終的には裁かれて

地獄に行くものです。そんな者に訴えられる筋合いはありません。だから、激しい怒りを持って、

ルシファーを退けて行けばいいのです。すると、退けた瞬間に、
「もう自分の肉の弱さに留まる

必要はない。イエス様にあって生きて行けば良いのだ」
という思いが戻ってきます。ですから、

ここからもう一度絶対主に懸けて行く生き方を始め出せばいいのです。この生き方を始め出した

なら、私たちは自分の人生の背後には、全能主がおられますから、「自分にはできなくても、

全能主にはできる。だから、絶対に何とかなる」という気持ちで、何事にも手抜きなしで

向かって行けばいいのです。この「手抜きなし」というのは、いつも成功するとか、良い結果が

出せたということではありません。自分のできる精一杯の中で、逃げずにやり抜いていく人生の

ことです。これが、絶対主に懸けて行くということです。パウロさんは、この生き方を全うしま

した。だから、私たちも、「私は戦いを勇敢に戦い抜き、走るべき行程を走り終え、主を信じ

仰ぐ心を守り通しました」と言い切っていくのです。


(結) だから、私たちはもう、自分の肉の弱さや、肉の性質、肉の能力にとらわれる必要は

ありません。
むしろそこから離れて、ただイエス様にあって生きている者として、自分のできる

ことを精一杯やって行けばいい
のです。これが、自分の肉に頼る生き方から、絶対主に懸けて

行く生き方に変えるということです。そして、それを精一杯やっていく中で、「キリスト・

イエスにある恵みによって、強くされる」(1節)ということを体験して行くのです。私たちは

決して、自分の肉の性質や肉の能力の裏付けによって強くされるのではありません。自分の肉に

目を向けさせるのは悪霊の仕業ですから、それは瞬時に退け、絶対主に懸けて行く生き方を

始め出しましょう。そして、「キリスト・イエスにある恵みによって強くされる」ということを、

これから味わって行こうではありませんか。
                  
 


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