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2017年5月21日

絶対主に懸けて行くということにおいて、
遠慮する必要はない


ローマ8:12


(起) 「私たちは肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を負っていません」

という御言葉から、「絶対主に懸けて行くということにおいて、遠慮する必要はない」ということ

を学んで行きたいと思います。


(承) さて、ここ最近は、「絶対主に懸けて行く」ということについて学んで来ました。

そこで、私たちが、「絶対主に懸けて歩んで行こう」と決断すると、ルシファーが、「お前の

ような肉的なクリスチャンが、どうして『絶対主に懸けて行く』ことができるのだ」、「本当に

できると思っているのか?」と私たちを訴え、畳みかけて来る声に、つい弱気にさせられ、自分の

決断を亡き者にしょうとする策略にはまってしまいます。実際の私たちは、「そうしたい」という

気持ちは充分ありますが、現実の私たちは、何度も敗北してきましたので、その声が内側から

聞こえてくると、つい自信を失って気持ちが萎えてしまうのです。そこで、その声の
が、

絶対主に逆らい地に落とされたルシファーの声だと分かった時、
「お前から言われる筋合いは

ない」と、毅然と退けて行けばいいことが分かりました。
では、そのルシファーの訴えかけを

退けたあと、私たちの心に残る思いは何かと考えて行くと、それは、
「絶対主に従って行きたい

と思う霊の本心」
と、「生まれながらの肉の性質の弱さ」の二つの思いが、心の中にあることを

気づかされます。そこで、たとえルシファーを退けたとしても、生まれながらの肉の性質は現実

に存在しており、この地上で生きている以上、それが無くなってしまうものではないことも

分かりました。


(転) では、この肉の問題に関して、聖書は何と言っているか見て行きましょう。

ロマ書8章1~2節を見て行きますと、「…肉に従って歩まず、御霊に従って歩む人々は、

決して罪に定められることがない」とあります。また、「それは、キリスト・イエスにあるいのち

の御霊の法則が、罪と死との原理からあなたを解放したからです」とあります。確かに、

イエス様の贖いによって、「罪=死」という原理から解放されたことは事実ですが、その実体は

アオリスト形ですから、私たちの体が贖われるまで、味わうことは出来ません。それは、

イエス様が再びこの世に来られて、私たちの朽ちる体を朽ちない御霊の体に変えて下さった時に

初めて経験することです。ですから、現在の私たちは「罪=死」の原理から解放されたといっても、

実際に肉体を持ち、肉にあってこの地上で生きている間は、肉に在ってうめいているのです。

この葛藤は、地上にある間は、被造物のすべてが味わうものです。それなのに、なぜパウロさん

はここまではっきりと言い切れたのでしょうか。

  それは、彼が御霊の満たしを受けていたからです。満たしを受けると、
御霊に従う思いが強く

され、御霊のことに心を向けるように変えられて行くからです。
もちろんパウロさんにも肉は

ありましたが、御霊に満たされたことによって、自分の肉に従う心よりも、御霊に従う心の方が

強くなって行ったのです。しかし、私たちの場合は、御霊の満たしの中に歩まないと、つい

御霊の方に心を向けようと思いつつも、どうしても肉の方に心を向けてしまうという現実が

あります。しかし、「その肉の弱さを持っているから、絶対主に懸けて行くことは出来ない」

ということではありません。8章12節を見ますと、「私たちは肉にあって生きていても、

肉の性質に従って生きる義務を負っていません」とあります。これを分かりやすく言い換えると、

「私たちは確かに肉の性質を持っていますが、それでも、絶対主に従って行きたいという霊の

本心で生きて行っていい」ということです。なぜなら、肉の性質に従って生きる義務がない

からです。だから、私たちは御霊の満たしが弱いからといって、霊の本心でやって行くことを

遠慮する必要はありません。肉があったとしても、精一杯絶対主に心を向けて歩んで行っていい

のです。なぜなら、私たちの救いの原点は、私たちが良い人間になったから救われたのでは

ありません。自分たちが罪人であった時に、イエス様が死んで下さったことにより、

その贖いによって罪人である私たちでも救われたのです(ロマ書5:8)。ですから、

「お前は罪人だから、イエス・キリストの救いにあずかる資格はない」とは言われませんでした。

同じように、「お前たちは、肉の弱さを抱えているから、絶対主に懸けて行く資格はない」とは

言われていないのです。何故ですか? それは
私たちのためにも、イエス様は死んで下さった

事実があるからです。


(結) このように、私たちは、依然肉の弱さを持ちつつも、霊の本心に心を向け、「絶対主に

懸けて行く」という気持ちを貫いて行っていいのです。それを遠慮する必要は少しもありません。

もし、「絶対主に懸けて行く」ことについて、訴えかけるルシファーの声があるなら、それは

瞬時に退けて下さい。私たちは、
「肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を

負っていません」ので、肉の弱さを認めつつも、前向きに絶対主に心を向けて、「絶対主に

懸けて行く」という霊の本心に立って行っていいのです。
どうか、ここに確信を持ちつつ、

精一杯絶対主に心を向けて、歩んで行こうではありませんか。

 


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