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2017年12月3日

『悔い改めにふさわしい実を結ぶために』


使徒の働き26:19~23


(起) 使徒26章20節の御言葉から、「悔い改めにふさわしい実を結ぶためには、自分を徹底的に

否定し、『自分ありきの心』を砕いて、絶対主の国と絶対主の義をまず第一に求めて行く」という

ことを学びたいと思います。


(承) さて、20節を見ますと、パウロさんは「悔い改めて絶対主に立ち返り、悔い改めに

ふさわしい実を結ぶように」と、宣べ伝えて来たと語っています。この「悔い改めて絶対主に立ち

返る」ということは、「自分自身が罪人であることを認め、もう自分の中に誇りを持っていた

ものは、ゴミです。だから、絶対主のお心のままに歩んで行きます」という絶対主に立ち返った心を

持つことです。「絶対主のお心のままに歩んで行く」ということは、言葉を換えると「自分を

徹底的に否定し、絶対主の国と絶対主の義をまず求めて行きます」ということです。しかしながら、

ほとんどの人が、そこまで心を変えて行くことをしていません。多くのクリスチャンが、罪人である

ことは認めても、「絶対主を第一にして行く」と心を変えていないのです。その手前で、皆留まって

います。それは何故かと申しますと、たとえ自分が罪人だと分かっても、「自分の考え、自分の

思いは、自分の主権だから捨てられない」と、しっかりと自分の主権を確保し、「自分ありき」

という部分を強く残しているからです。すなわち、「自分が罪人だということは分かるが、自分を

徹底的に否定することはしたくない」ということです。それは、「自分を徹底的に否定してわたしに

従ってきなさい」と言われたイエス様のメッセージとぶつかります。私たちがその部分を持って

いたら、いくら罪人であると認めたとしても、絶対主のお心のままに働いて行くことはできません.

(転) では、私たちはどうしたらいいのでしょうか?まず聖書には何と書いてあるでしょうか。

聖書には「まず絶対主の国と絶対主の義を求めなさい」とあります。確かに、私たちは生まれ

ながらに「自我」というものを持っており、「自分の考え」、「自分の思い」というものを当たり前

のように働かしています。そして、無意識のうちに「自分ありき」という考え方を培ってきました。

しかし、そういう自我を否定して、初めて絶対主を第一にし、絶対主に心を合わせて行くことが

できるのです。だから、私たちは最終的にはそこに飛び込まなければ始まりません。それをした

のが、ジョージ・ミュラーさんです。ミュラーさんは、元々肉の強い性質の人で、非常に自分勝手な

人間でした。「盗みはするし、人は騙す。とにかく自分さえ得すればいい」という考えの人でした。

しかし、彼がある小さな家庭集会に出席したとき、
「聖書の御言葉を本気で信じ、聖書一本で物事を

考えて行く人々がいる。これが、本物の信仰の心だ」
ということを知り、その世界に入って行ったの

です。そして、孤児を育てるように導かれた時「自分は牧師をしていて、収入はない。じゃあどう

すればいいのだろうか」と自問した時、「孤児の父は絶対主である」という御言葉に目を留めさせ

られ、「絶対主が孤児の父なら、絶対主が養ってくれる。だったら孤児を引き取ることができる」と

考えたのです。その考えは、自分に根拠を置いた考えではありません。彼は、「自分ができる」とか

「できない」とか、「自分はこう思う」という考えの「自分ありき」の部分を捨てたのです。

ただ、「孤児の父は絶対主である」という聖書の御言葉に立ち、「まず絶対主の国と絶対主の義を

求めなさい。そうすれば、すべて添えて与えられる」という世界に飛び込んだのです。私たちも、

ここまで行かなければなりません。
「自分の考え」、「自分の思い」というものを温存していたら、

いつまでも経っても絶対主と喧嘩をし続けて行くことになります。それでは、絶対主に従って行く

生き方は始まりません。だから、どうしてもその「自分ありき」という部分が砕かれなければ

ならないのです。それを砕いて、「まず絶対主の国と絶対主の義を求めて行く」という世界に飛び

込んで行った時に、初めて「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことができるのです。


(結) こういうわけで、絶対主が最終的に願っておられるのは、「まず絶対主の国と絶対主の義を

求めて行く」という心を、私たちクリスチャンが皆持つことです。罪人には、正しい判断が出来ない

から絶対主に聞いて行く、「そこから始めなさい」と言われたとしても、「自分」というものを

頑なに持っていては、どうにもなりません。問題は、自分が罪人だと分かったら、「もう自分の

判断、自分の考えではない。絶対主の判断に任せてやります」という世界に飛び込むかどうかです。

それが、「まず絶対主の国と絶対主の義を求めて行く」ということです。絶対主は、その心を持った

者に安心して、働きを委ねることができるのです。私たちが目指す最終的な目標はここです。

どうか、自分を徹底的に否定し、
「自分ありき」を砕いて、ジョージ・ミュラーさんのように、

本気で信仰の世界へ飛び込んで行こうではありませんか。
そして、その信仰で本気で「悔い改めに

ふさわしい実を結ぶ者」とされて行きましょう。


  


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