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2017年11月26日

『張り合う心を砕き、走るべき行程を走り尽くす』

使徒の働き20:24、21:4~15


(起) 使徒行伝21章13節の御言葉から、「私は、主イエスの御名のために縛られるだけで

なく、エルサレムで死ぬことさえも覚悟しているのです」と言ったパウロさんの言葉から、

「人と張り合う心を砕き、砕かれた心を持って、自分の走るべき行程を走り尽くす」という

ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、13節を見ますと、パウロさんは、「私は、主イエスの御名のために・・・死ぬ

ことさえも覚悟しているのです」と言いました。しかし、「死」というのは、人間が一番嫌う

ものです。なぜなら、「死」というのは敗北の象徴だからです。いくらこの地上で栄光に富んだ

生涯を送っても、最後に考えることは、「死にたくない」という思いです。では、なぜパウロは

このように、「自分は死ぬことさえも覚悟している」と言うことができたのでしょうか。

それは、かつてパウロは、キリストと張り合って多くのクリスチャンを死に渡すために縛り

上げ、殺そうとして来ました。だから、自分はその報いを受けなければならないということを、

直感で感じていたのです。誰だって、わざわざ苦難を受けて死ぬような目に遭いたくないと思う

ものです。しかし、その「死」を受け入れる心を持てるなら、これ程の純粋な心はありません。

彼はイエス様と出会って「キリストと張り合っていた者」だと思い知らされました。しかし、

「絶対主はそんな自分を 受け入れて、なお使って下さる」ということも、パウロは知ったの

です。だから、本来なら「自分はキリストと張り合って、クリスチャンを迫害し,無理矢理

イエス様を汚す言葉を言わせようとした者ですから、絶対主の裁きを受けて当然です。しかし、

絶対主はこんな者を受け入れて下さり、使命を与えて下さった。だから、その使命を全うさせて

いただくために命を使うことができるなら、この命は、惜しいとは思わない」という心を抱いた

のです。すると、
絶対主は、罪人が罪人であると遜って認めた者を、他の人間と同じように

見下したりはしません。
だから、「お前はその心を 持って、わたしに仕えてくれ」と言って

下さったのです。パウロは、その絶対主の心を理解して、「自分はクリスチャンを迫害した程の

罪人ですが、こんな者でも使って頂けるのなら使って下さい」という前向きな気持ちを持てたの

です。「この感謝な気持ちで一生涯通せるならば、自分は死んでも構わない」というのが、

「死ぬことさえも覚悟している」と言ったパウロの心です。


(転) では、私たちも、このパウロさんと同じような心を持って生涯を通すことができるで

しょうか?もし可能なら、どうしたら良いのでしょうか。それは、パウロさんのように「自分も

生まれながらに罪人で、罪の裁きを受ける惨めな者です」と絶対主の前に認めた世界に入ること

です。ところが、それは頭では分かっていても、いざ実際にその世界に入ろうとしても、

なかなか心が付いて行かないのが現実です。それは、「罪人として救いは欲しいが、全面的に

罪人であるなどと思いたくない」というプライドがあるからです。しかし、人間は皆、心の中で

良心の声に苛まされ、メッセージを通して「私たちは元々罪人だから、罪はないなどとは言え

ないし、自分の罪に苛まされて丁度だ」と言われて、「その通りだ」と思いつつも、教会を

出れば、人と互いに張り合っており、「自分が悪いなどと言えば、競争社会の中でひとり取り

残されてしまう」と強迫観念に駆られ、正直になれないのです。それは、
私たちの心の中に、

「負けを認めたら終わりだ」という根深い心があるからです。
私たちは、子どもの頃から

競争社会の中で生きてきましたので、 誰だって負けて辛い思いをするのは嫌です。だから、

負け組にならないように一生懸命頑張り、たとえ負けても、「何とかして這い上がって勝ち組に

入りたい」というプライドを持って、人と張り合って来ました。しかし、クリスチャンに

とって、この「負けたくない精神」を持ち続けていたら、いつまでたっても、砕かれた世界に

入ることができませんし、パウロさんのように「死ぬことさえも覚悟しています」という、

純粋な心で主に仕えて行くことも出来ません。 だから、私たちはどうしてもこの壁を砕かな

ければならないのです。この壁を砕けば、自分の負けを認めてしまうことになります。すると、

「本当に生きる力を失ってしまう」と、恐れが出てくるかもしれません。しかし、それでも

私たちは、そこで虚栄を張ってはいけないのです。問題は、パウロさんのように絶対主に

受け入れられる生涯を通すことが出来るかどうかの問題です。負けないように頑張っても、

絶対主には受け入れられません。私たちは、その張り合う心を砕いて、自分の罪深さを認めた

ところから、絶対主の前で生き始めるのです。


(結)ですから、私たちは「屈するしかない」ということを自覚し、自分の罪深さを認めた

世界に入って下さい。私たちは、これまでずっと「砕かれた悔いし心」について学んで

きましたが、その世界に入ることを妨げていたのは、私たちの
僅かばかりのプライドと、人と

張り合う心
です。どうか、この張り合う心を砕き、砕かれた心を持って、パウロさんのように

絶対主に与えられた自分の走るべき行程を走り尽くそうではありませんか。

 


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