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2016年 NO.565


全く罪の中に生まれた(ヨハネ9:34)


「先生、この人が生まれつき盲目なのは、誰が罪を犯したからですか、この人ですか?

それともその人の両親ですか?」(ヨハネ9:2)と弟子たちは、イエス様に尋ねました。

それは、モーセの律法によれば「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで

及ぼし」(出エ20:5)と書いてあるからです。しかし、イエス様は「この人が罪を

犯したのでも、またその両親が罪を犯したのでもありません。ただ絶対主の御わざが、

彼の上に現わされるためです。」と言われ、この盲人を癒し、目を開けられました。

ところが、パリサイ人は安息日に癒しが行われたことを批難し、イエス様を罪に定めようと

盲人を問い質(ただ)しました。そこで盲人は、「生まれつき盲人であった者の目を開けた人が

いるとは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もし絶対主から来た人で

なかったら、あの方は、何一つできなかったはずです」と答えました。すると、パリサイ人は

盲人に向って、「お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えようとするのか?」と

怒ったのです。この「全く罪の中に生まれていながら」とは、生まれながらの盲人にとって、

その可能性が十分ありました。しかし、パリサイ人も同じはずです。それは、全世界の人間が、

生まれながらに罪人で、滅ぼされるべき怒りの器(ロマ9:22)だからです。ですから、

全ての人間が絶対主によって、先祖の咎と自分の咎のために報いを受けてもおかしくは

ありません。しかしイエス様は、「メシアとして盲人の目を開けられた」ということは、

「滅びの中にある罪人を救うために来られた」ということです。そこで、イエス様は

パリサイ人に「盲人であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう」と言われました。

それは、盲人であるなら、罪人であることを自覚でき、「罪人を探して救って下さるイエス様の

恵みに預れた」からです。ところが、パリサイ人は、「目が見える」と言い張り、自らを

生まれながらの罪人として認めることをしませんでした。では、私たちはどうでしょう。

私たちも生まれながらに罪人です。しかし、「目は見えます。」だから自分は「全く罪人だ」と

言い切れないのです。これが同じ罪人なのに「全く罪の中に生まれた」と言えない原因です。

わずかばかり「目が見える」と言い張り、「全く罪人」であると認め切れない者に、イエス様の

救いはありません。絶対主の子が命を捨てて贖いをして下さったのは、私たちが「全く罪の中に

生まれた」からです。そうでなかったら、自分の力で救いを達成しなければなりませんでした。

多少、目が見える能力があっても「全く罪人」なのが現実です。この認識は絶対主の側の

100%の見方です。「全く罪人」の認識は、人と見比べたものではなく、絶対主の前の

認識ですから
、このメッセージをへり下って受け留めましょう。この自覚こそ、御国に繋がる心

ですから。




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