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2016年 NO.564


戦国時代のキリシタンの気質と本気の信仰


  日本のキリシタンは、自分たちの信仰が、「邪教」だと言われても、大名をはじめ、家臣、

農民、商人たちは、ひるむことなく禁教下の中で、厳しい拷問や斬首を覚悟の上で信じて

行きました。それは妄信ではなく、仏教にはない理に適う教えであったからです。

またそれだけでなく、信じた者に聖霊の満たしがあり、心の中に確かな平安をもたらして

いたからです。彼らは「一生懸命福音を聞き、その教えを自分のものにしようとして必死で

あった。」と記録されています。この福音を『信じる』と言うことは、下手に出て心を開いて

聞き、初めてそれを受け止めることが出来ます。だから、日本人には「下手に出て従うこと

を美徳とする」という日本人独特の気質がありました。

これは、今日の私たちにも受け継がれて居る筈です。福音を信じるということは、自分が罪人

であることを認めるところから始まります。罪人だと認める心は、下手に出る心を持っていて、

初めて出来ることです。ですから、キリストを信じたと言う事は、一生涯、絶対主に対して

下手に出て従って行く生涯です。
しかしながら、今日のクリスチャンには、下手に出る心が

ありません。何故でしょうか? 

 それは、戦国時代のように「信じる」と言うことは、直ちに「死を意味すること」では

ないからです。むしろ、熱くもなく、冷たくもない今日の時代では「信じる」ことは、この

地上で絶対主に助けてもらうことだけが目的で、自分の損得の追及になっているのです。

キリシタンの場合は、地上のご利益を求めてはいませんでした。なぜなら、「信じる」

イコール「死」であったからです。彼らは罪人が地獄の裁きから救われ、命を閉じた時に

天の御国に入れてもらうことを本気で求めていたのです。しかし、同じ日本人でも、今日の

クリスチャンは自分勝手で、下手に出て本気で信じる精神に欠けています。だから、同じ

「信じる」と言っても、自分で作り上げた自分の都合の良い信仰になっており、捨て身の心

を求められると、心を閉じて反抗的になるのです。
それは、まさに損得中心の信仰に成り

下がっているからです。今こそ、心を入れ替え、なりふり構わず、本気で信じる心を表して

行きましょう。ジョージ・ミュラーさんは、生活を保障された国教会の牧師を辞退して、

絶対主にのみ期待して生きて行く、独立した牧師として伝道を始めました。すると絶対主は

本気で信じる者に『全能の力』を表して
、2000人もの孤児たちを養い育てて下さった

のです。この本気の信仰こそ、いま私たちの教会に求められているものです。




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