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2016年 NO.566


駄目な自分に留まるな

 クリスチャンの多くは、イエス・キリストの救いを信じた後で、自分の罪深さに気づき

始めます。「未信者時代は、醜い自分の性質に気づいても、それが生まれながらの罪人の

自分とは考えもせず、ただ自己嫌悪に陥るだけで、その嫌悪感から抜け出して人に認めて

もらおうと開き直って行きます。」ところが、キリストとの出会いによって絶対主の存在を

知り、その絶対主の前に、自分は生まれながらに罪人であることを、聖書を通して分り始め

ます。しかし、罪人であると分ったとしても、救われた以上、正しい人間にならなければ、

「救い主を恥ずかしめることになる」と思って間違った方向へ向ってしまいます。
ところが、

幾ら義人振っても、生まれながらの罪の性質はなくなりはしません。そんな時、「罪人の

自分が、ただキリストの贖いによって救われただけだ」ということを知って、罪人のままである

自分がいくら努力しても、絶対主の前に認めてもらえる功績を現わすことは不可能だと知る

のです。このような心の葛藤を経て、初めて救い主であるキリストから声が掛かり、「その

罪人でしかない事実から、始めて行きなさい」と言われるのです。この声を通して、「駄目な

自分、罪人の自分でもいいのだ」と言われていることに気づかされます。もし、そうで

あるなら、罪人の自分のために努力しても意味がないから、「罪人の私を救って下さった、

キリストのために生きて行こう」という心に変えられるのです。しかし、そこから始めず、

駄目な自分に留まり、過去の栄光の回復のために絶対主を利用して、「人に認めてもらう人間に

変わりたい」と思い続けるのは、間違っています。救われたクリスチャンは、罪人の自分の

ために生きても仕方がありません。ですから、絶対主の栄光の為に、「こんな駄目な自分でも、

そこから始めて行きなさい」と言われたお方のために、生き始めるのです
。それがマグダラの

マリヤさんでした。だから、たとえ失敗しても、怒られても「父がわたしに下さった杯を、

どうして飲まずにおられましょうか」と言われたイエス様のように、絶対主からの杯なら、

どこまでもへり下って受けて行くのが、クリスチャンの心です。自分の愚かさに腹を立て、

怒ってムッとした顔をするのは、自分を認めて欲しいと思っているからです。救われたことを、

自分の栄光のために利用してはいけません。罪人はどこまでも罪人です。ですから、絶対主の

栄光のために生きて行くのです。駄目な自分に留まるのは、救いを誤解した御利益信仰に

陥っているからです。




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