『棚から牡丹餅ではないキリストの救い』
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キリストの救いは、棚から牡丹餅ではありません。自分の罪を本当に認める者のために、
キリストは来て下さった のであり、その罪の贖いをして下さいました。そして、キリストの
救いが実際に実現するのは、キリストがもう一度ここに来て下さる時です。「今、信じたと
しても罪はなくなりません。」ですから、「一生、キリストの救いを信じ続けていくこと、
又自分の罪は悔いていくこと、口で告白して認めていくこと」それが信じたクリスチャンの
今して行くことです。今まで「悪いことは悪い、いけないことはいけない」と思っても、罪の
報いが怖くて口に出すことは出来ませんでした。しかし、イエス様は「口に出して認めた
罪人のための救い主」でしたから、「罰は罰として、今は責任を負って行けばいいのです。」
しかし、「責任を負えば、負っただけ報いが跳ね返って来ます。」だから、それが怖くて、
罪を認めることが出来なくなります。しかし、罪を認めなければ、キリストの救いは
ありません。だから、「永遠の裁きに比べたら、今負った方が楽ちん、楽ちん」です。
なぜなら、人間は必ず、「永遠の天国か、永遠の地獄か」の どちらかで暮らすことに
なりますから。罪を償うことは辛いかも知れません。しかし、永遠の地獄の罰は受けなくて
済むのです。それなら、自分の口で自分の罪を認める方が、正直でいいのです。しかし、
口に出して告白することが出来ない罪もあるでしょう。それなら、それはイエス様に密かに
告白して、その罪を自分が背負って行けば、それでいいことです。それは、死ぬ時までのこと
です。罪のために永遠に苦しむことからは、解放されたのですから。これは棚から牡丹餅と
言えば、そうですが永遠の苦しみから解放されているにもかかわらず、地上の罪の責任も
取れないクリスチャンがたくさんいることも事実です。だから、私たちは自分の罪を正直に
認めて、地上の報いだけは受けていきましょう。イエス様の故に御国に入れて頂けるのです
から。こうして、自分の罪の報いが怖くても、潔く受けて行くなら、キリストは「それで
いいのです」と仰って下さいます。キリストは「砕かれた悔いし心をさげすまれない」から
です。それは、罪人のための贖いだったからです。そして、その時、クリスチャンの心には
罪の赦しの光が灯るのです。そして、クリスチャンが天に上げられた時、罪は消え去ります。
キリストと同じ者とされるからです。(第Uコリント3:18) しかし、罪人は天に行っても
罪人であったことを忘れてはいけません。その心があったからこそ、絶対主の前に受け入れ
られたのですから。 |
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