ローマ書の3章20節までは、ユダヤ人もギリシャ人も、全世界の人間が罪人であると
結論づけられています。それは、「義人はいない。一人もいない」からです。だから、「律法を
行うことによっては、絶対主の前に義と認められる者は、一人もいない」のが現状なのです。
そこで、絶対主は律法とは別に義とされる道を明らかにされました。それは、「絶対主の
恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの故に価なしに義とされる」道です。これは、
すべてキリストを信じる者が、「平等」に与えられるものです。決して、正しい行いをしている
という者の救いではありません。罪人と自覚している者の救いです。その理由は、キリストの
贖いにより、信じる者は、キリストと共に十字架につけられ(アオリスト形)、罪の体が
滅ぼされ(アオリスト形)、新しい命の中で歩むためです。ですから、このキリストの贖いを
信じた人々は、「私たちがキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになる」
(ロマ6:8)という教理の中に置かれます。しかしながら、教理だけでは、現実の罪の虜から
は救われません。現実の私たちは、依然罪の中にあり、「罪から解放され(アオリスト形)て、
義の奴隷とされた(アオリスト形)」という現実の事実がないからです。しかし、ギリシャ語の
アオリスト形は「現在の状態の如何に関わらず、過去に起った事実を示す」時制であるため、
教理の上では成り立っています。しかし、現実の罪人の人間には、このことが実現されて
いません。ですから、パウロは7章に於て、現実の姿を見る時「私の肉の性質の中には、善が
宿っていない。・・・善をしようとする意志はあっても、それをする力がない」(ロマ7:18)
という苦悩に陥り、自分は「なんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:24)と告白して
います。しかし、8章に入ると、「キリストの故に、絶対主に感謝します。・・・肉に従って
歩まず、御霊に従って歩む人々は、決して罪に定められることがない」(ロマ8:1)と、突然
勝利の告白をして、惨めで、力のない人間であったパウロが、「肉に従って歩まず、御霊に
従って歩む人」と、言い切っています。そして彼は、この条件を満たすならば、「罪に
定められることはない」と断言しました。しかし、「肉に従って歩まず」という条件が、罪人の
ままである私たちに当てはまるでしょうか。それは、到底無理です。では、どうすれば「御霊に
従って歩む人」となれるのでしょうか。それは、パウロのように「聖霊に満ち溢れていること」
が条件です(使9:17)。御霊に満ち溢れることを通して、8章が語れるのです。この
満たしのないクリスチャンは、7章で行き詰まります。それなのに無理して8章に入って
行こうとするなら、罪を棚上しなければなりません。「恵だとか、愛だとか」と言って、
現実逃避して、自分が如何にも御霊によって歩んでいないのに、歩んでいるかのように「みなし
続けている」のです。それが「信仰」だと思うのは間違いです。今の私たちに出来るのは、
罪を棚上せずに、その報いを受けて行くことです。自分を誤魔化さず、「御霊によって歩んで
いない自分」を認めて、主の前にへり下り、御霊の満たしを、真摯に求める心が必要です。
主は罪を棚上することを一番嫌われます。地獄の苦しみから救われているのですから、この
地上での惨めな罪人が犯す責任は取らなくてはなりません。この姿勢を野放しにして、決して
8章に行ってはならないのです。
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