『罪人の「安全圏」は
「砕かれた悔いし心」の中にある』
|
「罪人の安全圏」とは何でしょうか? それは、クリスチャンであっても罪人であることには
変りありません。ですから、救われたクリスチャンが罪の現実の中にあっても、罪に問われ
ない領域のことです。イエスキリストの救いは、イエス様が全人類の罪の償いをして
下さったが故に、その償いを受け取った者は、現在は罪人のままの状態であっても、罪の
裁きを受けて地獄に行かなくても済む者となりました。この救いは、命を閉じた時に現実に
味わいます。しかしながら、この救いを頂いたから、「もう安心だ」と言って、地上の
残された人生を、好き勝手に罪を犯してもいいという訳ではありません。罪を犯したなら、
この地上にある間は、当然報いを受けなければいけません。もともと、イエス様は、「罪を
犯さない正しい人間だけを選んで救いを与えた」訳ではありません。むしろ、罪の呪いの中で
苦しんでいる人間が、「生まれながらの罪人であると正直に認めた時」その罪人を救って
下さいました。ですから、クリスチャンと言っても、罪の性質が無くなった訳ではありません
から、依然、罪人の性質から出てくる悪を行ってしまうのです。そんな私たちが地上に
あっても罪の赦しを頂ける領域があります。それは、まず、イエスキリストの罪の贖いを
否定しないことが前提です。その上で、自分が犯した罪の罪過は、正直に認めて、
その報いだけは受けて行くことです。この報いを受けるのが怖くて逃げて行くなら、自分は
罪人ではないと誤魔化すことになりますから、罪人を救って下さったイエス様は、それを
お赦しになることはありません。その報いとして、「平安」を失うのです。この平安を
もう一度回復するには、「自分の罪を隠しておきたい」、「告白して怒られたくない」、
「恥をかきたくない」、「自分の面子が潰れるのが嫌だ」という心の思いを砕いて、
「悔いし心」を持って怒られに行くことです。この心に立ち戻るなら、また「平安」が
返って来ます。罪を認めた正直な心を、絶対主は、蔑まないからです。(詩51:17)
ですから、クリスチャンが、この地上で平安を持って過す「安全圏」は、「砕かれた
悔いし心」にあります。それは罪に対して正直である世界に留まることです。その
安全圏は、罪の度合を越えない程々の範囲の中にあるなら、絶対主もいちいち咎め立てを
なさることはありません。その領域は、人と摩擦を起こさない常識的な範囲です。
その程々の度合を越えた場合でも、もう一度謝って、安全圏の中に立ち戻るために、
「悔い改めて、報いを受ける正直な心」に帰ることです。すなわち、人間は、罪人である
ことを絶対主は承知の上で救って下さったのですから、罪を棚上げせず、その面子を砕いて
「悔いて行く心」があれば、赦され続けて行くのです。この領域が、私たち罪人の地上にある
「安全圏」なのです。しかも、天に迎えられた世界では、この罪は完全に消滅しますので、
地上では罪を棚上げせず、地上の安全圏に留っていた者が、天での真の安全圏の中に置かれ
ます。これが救われた者の永遠の救いなのです。 |
|
|
|
|