「罪多くの場合、「聞き方が独り善がり」で、相手が何を言おうとしているのか?また何を
教えようとしているのか? 分かろうとしない聞き方をしています。それは、聞いたと
しても、聞きながら余所事を考えたり、相手の話の筋をきちんと捕える聞き方を
していないからです。例えば、メッセージを聞く場合とか、学校の授業で聞く場合も同じ
ですが、ほとんど自分の分ることだけしか聞こうとしないからです。だから、聞いて学んだ
ものが自分の糧になっていかないのです。私たちの教会の場合、「砕かれた悔いし心を
絶対主は軽しめられない」というメッセージを20年以上も聞いて来ました。しかし、
今だに、絶対主が「砕かれた心を軽しめられない」ことを心で味わい、悟った人が何人
いるのでしょうか? 現実は、同じメッセージが毎週繰り返され、いろいろな角度から
教え続けられています。それは、話の意図の全体を理解し、その通り行って自分の糧にして
いないからです。話されていることを「あっそうか」と悟るためには、話を心の中に全部
入れて、その通り行ってみる必要があります。決して、メッセージの撮み食いでは、
語られた内容の実際的体験をすることはできません。聖書は、「聞く耳のある者は聞きな
さい」と言われています。これは、聞いたことを自分がどう理解するかという問題ではなく、
ただ相手の語る教えに聞く耳を持つかどうかが、まず問われているのです。クリスチャン
なら、「絶対主のことば」である聖書を全面的に肯定して、全部その通り聞いて行こうと
すべきです。しかし、多くの場合「自分の理解できる所」とか、「自分の耳に心地好い
もの」とか、自分の興味のあることだけに意識を止めて、他は聞き流して聞いています。
本来の聞き方は、まず全部分ることも、分らないことも心を開いて、心の中に入れること
です。すると、聞き終った後に、「その通りしてみよう」という思いが出てくるのです。
聖書は、「絶対主のことば」ですから、心に留めるものと留めないものを色好みしては
いけません。絶対主のことばは絶対ですから、全部聞いて行こうとすべきです。それを
しようとするとき、「聞きたくないと思う心を砕いて聞く」のです。すると、絶対主の真意が
分って嬉しくなるのです。これを始めて行きましょう。 |
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