「律法によって義と認められようとしているあなた方は、キリストから関係が切られ、
恵みから落ちてしまったのです」(ガラテヤ5:3)。もしクリスチャンであっても、
自分を根拠に置いて生きて行くなら、キリストから関係が切れてしまいます。なぜなら、
「自分の造った律法によって義と認められようとしている」ため、自分の行いに頼り続けて、
生きて行くからです。もし自分の行いに頼れるなら、キリストの贖いは無意味になります。
それならば、なぜクリスチャンは、「イエス・キリストを信じたのですか?」それは、自分が
罪人であり、「自分の力ではどうにもならなかったから」ではないでしょうか?
それなのに、なお信じた後でも、「律法によって義と認められよう」とするのでしょうか。
それは、キリストの力が足りないので、自分の力で補って行かなければならないと思っている
からでしょうか。そのような考えに陥るのは、キリストの救いの完成を、この世で味わいたい
と思い、救いが世の終りに実現することを、私たちが信じようとしないからではない
でしょうか。また、救われたはずの自分を見る時、1つも変っていない現実の自分を知って、
「つい、自分の努力が足りない」と思うからではないでしょうか。これらの考えは、
全て間違っています。私たちの救いは、罪人が「天国へ行くか、地獄に行くか」という
裁きの問題です。ところが、私たちが救いを願った動機が、この地上で自分の醜い性格が
変ることを願って信じたという勘違いがあるのではないでしょうか。だから自分の力に
頼って、救いを完成しようとするのです。しかしキリストの救いは、地上の人間の性格を変る
ことではありません。元々、生まれながらの人間は罪の中にあります。ですから、死んだ後、
自分の力で裁きから逃れようと思っても、到底無理です。だから、生まれながらの罪人には、
地獄の裁きしかありません。しかし、イエス様は私たちの罪を全部負って、罪の償いをして
下さったのです。なのに、その救いの確信を肌で感じようと、少しばかりの自分の力に頼って
行いをしたからと言って、何んの効果があるのでしょうか。むしろ、罪人その者が、
イエス様によって完全な贖いを受けたのですから、罪人である自分の立場を認めて、「ただ
主にへり下って」、下手に出て感謝し続けて行く心が、私たちの出来る精一杯の行いではない
でしょうか。なのに、「少しばかりの力を使って、義と認められようと努力しても」、
どれだけのことが出来るのでしょうか。それは、イエス様の心を逆撫でするだけで、
イエス様との関係を自分で切ることになります。私たちは、イエス様を信じたその時に、
律法から解放されたのです。「もう自分の力では、どうにもならない」と分って、イエス様の
救いに頼ったからです。ならば、主の恵みの中に留り続けて行きましょう。それは、これから
主にのみ頼って、「絶対主の国と絶対主の義を求めて行こう」と決断することです。それが
自分に根拠を置かないクリスチャンの歩みです。 |
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