(起)「この世の見方、考え方をやめ、イエス様の見方、考え方で生きて行く」ということに
ついて、学んで行きたいと思います。
(承)さて、このヨハネの福音書の特徴は、「イエス・キリストは絶対主の御子である」という
ことが、他の福音書よりも明確に記されています。しかし、「絶対主の御子が、人となって
この世に来られた」ということは、普通なら考えられない話で、おとぎ話や神話のように思えて
しまいます。ところが、人となって来られる絶対主の御子キリストに関しては、旧約聖書の中に
数多く預言されていた事で、イエス様がこの地上に来られるBC1000年前からBC700年前の
預言者たちが、「将来、絶対主の御子と呼ばれるお方がこの世にやってくる。そのお方は盲人を
癒し、足なえを癒され…」と、預言をしており、その内容通りの事柄が、イエス様を通して
実現したのです。それによって、「今から二千年以上前に実在していたイエス・キリストが、
元々絶対主のもとにおられた、絶対主の御子であった」ということが明らかにされたのです。
だから、このことは歴史上の事実として、誰もが受け入れことのできる事柄なのです。
それは、徳川家康が、歴史上に存在した人物であるように、イエス・キリストが歴史上に
存在していたのです。そうであるならば、そのイエス・キリストをこの地上に送られた絶対主も
存在することが、当たり前の事実として認めることができます。
(転) では、その事実が分かった以上、私たちは、すべての物事を絶対主の側から
見て行くことが肝要です。絶対主の存在がはっきりした以上、人間が主人公になって物事を
考えていてはいけません。私たちは常に絶対主がいるという前提の上で、物事を判断し、
選択して行くべきです。特にクリスチャンは、イエス様と出会い、その救いを信じ受け取った時、
「もう罪人の自分のために生きても意味がない。私を救って下さったお方のために生きて行こう」
と、考え方がガラッと変わるはずです。これまでは、罪人を救って下さるお方がおられるとは、
知りもしませんでした。しかし、イエス様はメシヤとしてこの地上に来られ、実際に、
生まれながらの足なえを癒し、盲人の目を開けられたお方に出会った以上、もう地上的なものの
見方や、考え方をしていてはおかしな事です。ヨハネ21:15からを見て行きますと、
甦られたイエス様とペテロの会話が記されています。しかし、この二人の会話は全く噛み合って
いません。その原因は、ペテロが人間的なものの見方でイエス様と会話をしていたからです。
イエス様はペテロに、「あなたはわたしを愛しますか」と、アガペー(一方通行の愛)で
聞かれました。しかし、それに対してペテロは、フィレオ―(双方向のギブアンドテイクの愛)で
答えました。イエス様は3回同じ質問をされたのですが、ペテロは3回ともフィレオーで
答えたのです。それは、ペテロが十字架の前に「イエス様を知らない」と三度否定してしまった事
を通して、自分が卑怯な醜い人間であることを思い知り、「こんな罪人がイエス様を愛するとは
いえない」と、人間的な考えの中に留まってしまったからです。しかし、イエス様はペテロに
対して、「卑怯な罪人はだめだ」とは言われず、むしろ、「あなたは、わたしに従って来なさい」
と声をかけて下さったのです。イエス様は、ペテロが更生して義人になることを求めて
おられたのではありませんでした。だからペテロも、復活したイエス様と出会った時、
イエス様と同じ見方、考え方に同意して、同じようにアガペーで答えれば良かったのです。
しかし、彼は地上的なものの見方、考え方に留まってしまったのです。
(結) 私たちは、このペテロと同じ失敗をしていてはいけません。すなわち、この地上の見方、
考え方で、自分を縛ってはいけません。私たちは、いつも絶対主の目から見て、「どうする
べきか、どう考えるべきか、どう判断して行くべきか」と物事を見て行くべきです。私たちは
生まれながらに罪人ですが、イエス様はそれを承知の上で、「あなたは、わたしに従って
来なさい。」、「そこから始め出しなさい」と言って下さったのです。ならば、イエス様を
知らないと言ってしまったペテロでも、主はその罪人であることを承知の上で、「私に従って
きなさい」と言われたのですから、私たちも、罪人に過ぎない者ですが、主のために生かせて
もらうのです。なのになお、「罪人のままではダメだから、良い人間、できる人間、認められる
人間になってイエス様に認めてもらおう」と思うのは、間違っています。それはこの世の
考え方です。罪人が認めてもらえる人間に変われるのなら、イエス様は贖いの死を遂げる必要は
ありませんでした。どうか、この世の見方、考え方をやめ、イエス様の見方、考え方で、
始め出そうではありませんか。 主の考え方は、人間が自立の中に歩むのではなく、人間が
罪人の中から救われたのなら、絶対主を仰ぎ見つつ、絶対主の国と、絶対主の義を求めて、
ひたすら主に頼って主の御心の中に歩むことです。この一途な生き方を始め出して行きましょう。
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