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2016年9月25日



『下手に出る心こそ、イエス様と絶対主に繋がり、御国に繋がる者となる』

マタイの福音書15:21~28


(起)「下手に出る心こそ、イエス様と絶対主に繋がり、御国に繋がる者となる」ということを、

学んで行きたいと思います。


(承) さて、28節を見ますと、イエス様は異邦人のカナンの女に向かって、「女よ。

あなたの信じ仰ぐ心は見上げたものです」と言われ、彼女の信仰を褒めておられます。

イエス様が、個人の信仰を褒められるということは、そう多くはありません。しかも、彼女は

異邦人です。本来、異邦人というのは、見捨てられた民であり、メシヤに目を留められることの

なかった者たちです。ところが、ユダヤ人にとっては、イエス様はユダヤ人の王であり、

預言の中に記されていたメシアでした。ですから、ユダヤ人は、メシヤであるイエス様の恩恵に

あずかることは、ある意味で当然の権利でした。しかし、異邦人には、その権利はありません。

だから、異邦人がイエス様に助けを求めることは、筋違いであり、イエス様が彼女の求めに

拒否されてもしかたありません。ところが、必死に娘の癒しを願う彼女の心を見られた時、

イエス様は「あなたの信じ仰ぐ心は見上げたものです」と感動され、「これはほかって

おけないな」という憐れみの心を持って彼女の願いを聞き入れ、彼女の娘を癒されました。

ということは、私たちも彼女と同じ異邦人であり恵みの外にあった民ですが、彼女の信仰の心を

汲んでいくならば、少なくともイエス様と繋がり、イエス様に受け入れて頂けるということ

です。

(転) では、その彼女が持っていた心とは、一体どのような心なのでしょうか。それは、

どこまでも「へりくだって、下手に出て行く心」です。実は、彼女は、イエス様から何度も

拒否されています。まず、「主よ。私を憐れんで下さい・・・」と叫びながら、彼女はイエス様に

ついて行きました。しかし、イエス様は一言もお答えになりませんでした。そこで、

弟子たちが、「この女を追い払って下さい」と言うと、イエス様は彼女に対して、

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていません」と、

はっきりと断られました。ここまでの扱いを受けたら、普通なら落ち込んで帰って行きます。

ところが、彼女は更にイエス様に近寄って、なお、「主よ。どうかお助けください」と

言って、すがりついたのです。しかし、それでもイエス様は、「子どもたちのパンを取って

小犬に投げてやるのは、良くないことです」と言われ、彼女に心を向けられませんでした。

さすがにここまで邪見に扱われたら、「なんという冷たい人ですか」という気持ちになる

でしょう。ところが、彼女は、それでもなおイエス様に食い下がり、「主よ、お言葉どおり

です。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、頂きます」と、「へりくだって」

答えたのです。これは、自分のことを小犬として認めたということです。すなわち、

人間であるのに、人間の立場を砕いて、小犬の立場でイエス様にお願いしているということ

です。このように、
彼女は、否定されても否定されても、それよりも更に下にへりくだって

行ったのです
私たちに必要なのは、まさにこの心です。どんな場合でも絶対主の前に下手に

出る心を持って行くことが、罪人にとっての相応しい心だからです。なのに、私たちは、

怒られたり、自分の主張を拒否されると、「じゃあ、受け入れられるためにはどうしたら

いいの」とすぐに反発し、思いを巡らし考え始めます。それは、このカナン人の女のように

へりくだるのではなく、行いによって認めてもらいたいという気持ちがあるからです。

しかし、それは間違っています。私たちは、生まれながらに生の罪人ですから、絶対主の前に

認めてもらえる部分は一つもありません。私たちは、生まれた時から、罪人として燃える

ゲヘナの中に投げ込まれることが決まっていた、
「怒りの器」なのです。そこから何とか

引き上げていただけるのは
、ただイエス様が、贖いの代価としてご自分の命を差し出して

下さった御陰
です。
決して、私たちが「何かをした」からという訳ではありません。たとえ

私たちが良き行いをしたところで、罪人がしたことですから、何の功績にもなりません。

私たちに、認められる部分などは一つもないのです。だから、
私たちは下手に出て行くだけ

です
怒られようが、否定されようが、そこで弁解する権利もありません。私たちは、

「何か良い行いをすることによって認めてもらおう」という気持ちを持つことさえできない

罪人なのです。なぜなら、良い行いをしても、過去の罪が消えてしまうわけではないから

です。


(結) だから、私たちがイエス様と絶対主に繋がる秘訣は、どこまでも下手に出ること。

ただそれだけです。どうか、行いによって認められようとする心を砕き、下手に出る心を

持ってイエス様に近かづこうではありませんか。悪魔はいつも、「この世の中にあって、

へりくだってばかりいたら、どれだけみんなから馬鹿にされるか、分かっているだろ。

のし上がって認められなかったら意味がないじゃないか」と言って、私たちを惑わして

きます。しかし、私たちはそんなものに騙されてはいけません。ただイエス様の前に

どこまでもへりくだって、下手に出て行くのです。また、私たちの肉も、
下手に出ることを

嫌がりますから、その肉の思いを砕いて従っていきましょう
そうすれば、少しずつ下手に

出る心の幸いを味わうでしょう。その下手に出る心こそ、イエス様と絶対主に繋がる心、

そして御国に繋がる心です。どうか、この真理を覚え、ここに焦点を合わせて、始め出そう

ではありませんか。

 

 

 



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