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2016年9月18日



自分の考えを土台にするのではなく、
絶対主の考えを土台にして行動して行く


マタイの福音書12:1~8


(起)「自分の考えを土台にして行動するのではなく、どこまでも絶対主の考えを土台にして

行動して行く」ということについて、学んで行きたいと思います。


(承) さて、ある安息日に、イエス様と弟子たちが麦畑を通っていると、弟子たちが穂を摘んで

食べ始めました。すると、「安息日に働いてはならない」というモーセの律法に従うパリサイ人

たちは、「あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」と、イエス様に

向かって非難しました。すると、イエス様は、「ダビデは、絶対主の家に入って、祭司たち以外、

食べてはならない供えのパンを食べたのです」(4節)と言われ、その御言葉を用いて「祭司たち

以外、食べてはならない」ということは、逆に言うと、「祭司は食べても良い」ということだと

諭されたのです。そして、次の5節でも、「安息日に宮仕えをしている祭司たちは、安息日を

破っても罪にはならないことを、あなた方は律法で読んだことがないのですか」と言われ、

「祭司というのは、立場上、安息日を破っても罪にはならないことがある」という意味を、

ここで示されました。そして、「祭司が安息日を破っても許されることがあるのなら、まして

絶対主の御子は、祭司よりも大いなる者なのだから、安息日を破っても罪にはならない」という

論理を、パリサイ人に示されたのです。また、「人の子は安息日の主です」と言われ、「絶対主の

御子であるわたしは、『安息日にこれをしてはいけない。これは良い』ということを、すべて自分で

決めることが出来る。だから、わたしは律法の権威者だから、律法に縛られることはありません」と

語られたのです。このような考え方は、人間には理解出来ないかもしれませんが、絶対主の側から

見たならば、これは真理なのです。ですから、イエス様はこのように、いつも絶対主の側にある

自分から物事を見、人々に語られたのです。


(転) では、この御言葉の理解に立って、私たちも、これからどのような物の見方をして

行くべきなのか、考えて行きたいと思います。私たちは、絶対主(父)の存在を知り、全てのものが

創造主(イエス様)によって造られ、私たち自身もイエス様によって造られたことを知りました。

ならば、私たちは被造物として、当然、造ったお方(イエス様)に従うのは当然です。ということは、

私たちは、どこまで行っても、絶対主()、また創造主(イエス様)の側に立って、物事を見、

判断して行くべきです。その絶対主の側から見た考えをはっきりと表すことによって、時には、

世との間に摩擦が起こることがあるかもしれません。しかし、それでもはっきりと言い切らなけれ

ばならないことが、クリスチャンである私たちにはあるのです。それは、「聖書に関すること、

絶対主に関すること」です。この聖書に書いてある事柄については、私たちは少しも割り引いては

ならないし、絶対主の存在を引いて話してはなりません。聖書は、過去に多くの学者によって

調べられ、「二千年以上も前に書かれたものが、写本されて、それが今日まで残っている」という

ことが明らかになっています。すなわち、
「聖書という書物は、単なる神話ではなく、事実として

受けとめられているもの」です。ですから、私たちは、その裏付けのもとで、「聖書に書いてある

ことは今日も起こる」と、本気で信じているのです
。だから、聖書の御言葉を語ることにおいて、

不安な心を抱き、引いた心を持って語るようなことをしてはいけません。むしろ、いつも聖書の

御言葉に確信を持ち、絶対主の考えに自信を持って、すべての事を判断して行くべきです。

私たちは、その土台を絶対に崩してはなりません。しかも、今の時代は、バプテスマのヨハネや、

イエス様が「天の御国は近づいた」と人々に語っていた時期よりも、まさに「天の御国に近づいて

いる」のですから、なおさら、人間の知恵や判断に立ってはいけないのです。「自分たちは

こう考える、私たちこう思う」と、そんなことを言っている時代ではありません。私たちは、
今日、

この時から、「天の御国は、もう目の前まで来ている」という意識を持って、真っ直ぐに絶対主に

心を向け、自分たちの考え方、判断の土台を、絶対主に合わせて行くのです


(結) この様な訳で、私たちは、自分の考えから離れ、物の見方、考え方、判断を全て、

絶対主を中心にして見て行くのです。それが、これからの私たちの生き方です。イエス様も、

いつも絶対主に根拠を置き、常に、「絶対主は善であり、絶対的なお方である」という前提で、

物事を見、語って行かれました。私たちも、このイエス様の物の見方、考え方を習って行くのです。

どうか、自分の考えをこの世を土台にして考えていくのではなく、どこまでも絶対主の考えを

土台にして考えていくことを習慣づけて行きましょう。そして、この生き方を具体的に始め出して

行こうではありませんか。

 

 


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