(起)「自由意志を使って自分の心を新たにし、『主の判断に委ね、主に懸けて行く』という生き方を
始める」ことについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、このコロサイ書というのは、既に聖霊の満たしを受けている人たちに対して書かれた
手紙です。11節を見ますと、「あなた方が、あらゆる力によって強くされ、何事にも喜んで耐え、
かつ辛抱強くなって・・・」とあります。これは、かなりレベルの高い信仰の内容ですが、コロサイの
人たちは既に聖霊の満たしを受けていましたので、このようなレベルの高い内容も理解することが
できたようです。しかし、「聖霊の満たしを受けていれば、自動的にこの御言葉のとおりに
歩めるのか」というと、そうではありません。実際にその方向に向かい、霊的な実を結んで
行くためには、自分自身の強い意識が必要です。だからパウロは、このような内容を何度も語り、
勧めているのです。
(転) では、このような歩みを妨げる肉の罪に関して考えます。実は、私たちの肉というのは、
いくら自分で強く意識したとしても、それを完全に行うことも、抑えきることもできません。
なぜなら、生まれながらの罪人は、そんな力を持っていないからです。私たちは、「二度と罪を
犯さないように」と、自分自身の意識を働かせても、180度方向転換できるほどの力を
持ち合わせてはいません。また、一生懸命、律法によって自分自身に言い聞かせて変えて行こうと
しても、そのような人間の教えや戒めというのは、放縦な肉欲に対しては何の役にも立ちません
(2:20~23)。ですから、罪に関しては、「ほどほどに」という中で生きて行くしか
ないのです。ところが、罪とは関わりのない、霊的な事柄に関しては、「ほどほど」であっては
いけません。例えば、ロマ書12:2を見ますと、「自分の心を新たにすることによって、変えられ
続けて行きなさい」とあります。聖霊の満たしを受けている者も、まだ受けていない者も、
この「心を新たにして変えて行く」という意識は持って行かなければなりません。では、私たちは
どのように心に変えて行くべきでしょうか。それは、「自分の力に頼るのではなく、主に頼って
やって行く」という心へ変えていくことです。すなわち、「絶対主の国と絶対主の義を追い求めて
行く心」によって、「自分で判断することをやめ、絶対主に道を開いてもらうまで待ち、どこまでも
絶対主によって道を開いてもらって歩む」と決心することです。未信者の場合は、壁に
ぶち当たった時、自分の力で何とか壁を砕いて、それを乗り越えて行こうとしますが、私たちは、
そのやり方を止めるのです。もし壁にぶち当たったら、「どこまでも、絶対主の判断にお任せ
します」という、「絶対主に頼ってする」という生き方に変えて行くのです。クリスチャンとなった
以上、私たちはこの道に懸けて行くべきです。その決心をするのは、他の誰でもなく自分自身
です。自分自身の心の一新によってその決心をしなければ、いつまで経っても変わりません。
いつも自分自身を見て、「本当にできるかな」とか、「自分は弱いからダメだ」とか考えていたら、
私たちは永遠に変わりませんし、成長もありません。
(結) ですから、自分自身の意志によって、「絶対主の国と絶対主の義だけを追い求め、絶対主の
判断に従ってやります」と決心し、その道に歩み出すべきです。この見本は、ジョージ・ミュラー
さんの生き方に習うことです。このことを決める時、確かに恐れもあるかもしれません。自分の
判断によって行動することを一切やめるのですから。しかし、「絶対主にすべてお委ねし、絶対主に
懸けていく」という、この生き方を始めなければ、聖書にある、「絶対主の全能の力が、私たち
信じる者にとって、如何に偉大なものであるか」(エペソ1:19)ということを味わうことも
できません。私たちはイエス様を信じたのですから、「人間にはできないことも、絶対主には
できる」という、全能の力を目の前で見て行きたいのです。それを味わうためには、絶対主に懸けて
行くしかありません。それが、私たちクリスチャンの生き方です。私たちは、罪を消すことは
できませんが、「どこまでも絶対主の判断に従ってやります」と決めることはできます。そのために
私たちには自由意志が与えられているのですから、 その自由意志を使って自分の心を新たにし、
「絶対主の判断に委ね、絶対主に懸けて行く生き方」を始め出しましょう。
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