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2016年6月19日



私たちは、地上にある限りどこまでも
自分自身の罪に対して苦しんで丁度だ


ヘブル人への手紙10:32~39


(起)「私たちは、自分自身の罪に対して、地上にある限りどこまでも罪に対して苦しんで行って

丁度だ」ということについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、このヘブル書の特徴は、「イエス・キリストによる完全な贖い」「信者の滅び」

両面性が語られています。特に、「信者の滅び」について、ここまで明確に書いてある書は、他には

ありません。10:26を見ると「もし、真理の知識を受けた後にも、私たちがことさらに罪を犯し

続けるなら、罪のための生け贄は、もはやあり得ません」と、パウロははっきりと語っています。

しかし、10:35~36を見ると、「あなた方は自分の持っている確信を投げ捨てては

いけません。その確信には大きな報いが伴っているのです」と言っています。ですから、「信者も

滅びる」という真理を語りつつ、ここで最終的にパウロが言いたかったことは「しかし、あなた方は

滅びる者ではなく、約束のものを得る者となってほしい」ということでした。

(
信者の滅びは、コロサイ1:23)

(転) しかしながら、私たちは、「真理の知識を受けた後にも、…ことさらに罪を犯し続ける」

(10:26)という現実を、今もなお味わっています。この現実は、どうしたら良いので

しょうか。実は、このところの理解は、ユダヤ人と異邦人とでは違いがあります。まず、ユダヤ人に

とっての「救い」というのは、キリストによって「律法が廃棄された」ということです。だから、

彼らにとって「ことさらに罪を犯し続ける」とは、「キリストの贖いを否定し、再び律法によって

義とされようとすること」です。もし、律法に戻って行くなら、キリストの贖いを無視することに

なり、キリストとの関係が切れ、滅びることになります。では、異邦人の場合はどうでしょうか。

異邦人は、 ユダヤ人のような律法の世界にはありませんでした。ですから、初めから罪の世界の

中で自分勝手に生きていた異邦人にとって、「ことさらに罪を犯し続ける」とは、赦された罪を

棚上げにして、ことさら、罪の中に入って行くことです。それは、キリストの贖いを否定することに

なり、キリストの関係が切れて滅びることになります。その罪は「日常の罪、習慣的に犯す罪」の

ことを意味します。このように、ユダヤ人は律法から離れることを罪と感じ、異邦人が日常の罪を

罪として感じる罪意識は異なります。そこで、異邦人である私たちは、「日常の罪を一つでも犯し

続けたら、滅びる者になる」ということか、と言うと、そうではありません。この問題についての

解決は、ロマ書7章~8章にあります。パウロは、イエス様を信じた後、自分自身の日常の罪過に

ついて悩み始めました。それは、ユダヤ人として、律法に戻ったということではありません。彼は

心の罪に悩み、「自分はなんという惨めな人間だろうか」と言ったのです。
「惨めな人間だ」という

ことは、「自分はイエス様を信じた後も、日常の中で罪を犯し続けている人間だ」ということです。


ところがパウロは、次の8章で、こんな惨めな人間が、「罪に定められることはない」と断言して

いますが、それは、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」というのが条件です。ところが、

「聖霊の内住」と、「聖霊の満たし」とは違いますので、誰しもが、聖霊の内住だけでは、パウロが

言う「御霊に従って歩む」ということは経験できません。このことは、まだ「御霊の満たし」を

受けていない場合には、8章で語るパウロと同じように、「自分たちは罪に定められることはない」

と言うことはできません。逆に、「罪に定められる人間である」というのが現実です。それなら、

私たちは「罪を犯し続けてもしょうがないではないか」と言いたくなります。しかし、その考えは

間違っています。なぜなら、絶対主はこんな異邦人を見て、「罪に苦しみ続ける者たちに対して、

キリストの罪の贖いによって罪の裁きから救い、天の御国に入れてあげよう」と考えて下さったから

です。この救いは、命を閉じた時に与えられます。だから、「ことさらに罪を犯し続ける」のでは

なく、たとえ、罪に苦しむことがあっても、逃げてはいけないということです。
日々の罪に

関しては、度ごとに悔いて告白していくべきです。
そうすれば、絶対主は真実で正しい方ですから、

その罪を赦し、一つ一つの罪から清めて下さると約束があります。ですから、罪を悔いて行く

位いは、やっていくべきです。それをしていかないと、イエス様との繋がりはなくなります。

なぜなら、罪を棚上げすることは、罪がないと言い張り、キリストの贖いを無視することになるから

です。


(結) 私たちは、救われる前も、救われてからも、同じ罪人です。ですから、自分自身の罪に

対して、どこまでも苦しんで丁度です。その心があるからこそ、イエス様とつながるのです。

そんな私たちが、ただ贖いのゆえに天に入れていただけるとしても、へりくだる心は持って行ける

でしょう。
絶対主は、そのへりくだりの心を持った者を、天に引き上げて下さいます。この心は、

「御霊の満たしを受けて、御霊に従って歩み始めても変わりません。」御霊の満たしを受けても、

私たちは罪人です。
そのことをきちっと自覚した者たちを、絶対主は天に上げたいのです。どうか、

この真実を覚えてください。一切、自分の罪に対していい加減になったり、言い訳をしたり、

逃げたりしてはいけません。罪は自分のものであり、一生涯背負って行くべきものです。どうか、

その心を 持って、キリストを仰ぎ見て行きましょう。

 

 


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