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2016年6月12日



大祭司であるイエス・キリストに信頼し、
キリストに心を集中させて行く


ヘブル人への手紙3:1


(起)「大祭司であるイエス・キリストに信頼し、キリストに心を集中させて行く」(ヘブル3:1)

ということについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、ここを見ると、「大祭司であるイエス・キリスト」とありますが、まず、地上で言う

大祭司とはどのような務めをする人なのかということを、見て行きたいと思います。旧約聖書の

時代に、絶対主とユダヤ人の間で契約が結ばれました。それは、「絶対主から与えられる律法を

守る者は祝福を受ける。しかし、守らない者は永遠に呪われる」という契約です。民は、「分かり

ました。守ります」と声を合わせて言ったのですが、それを完璧に守った人は、過去の歴史の中で

一人もいませんでした。ですので、自覚のある罪については自分で生け贄を持って行って謝り、

知らずに犯してしまった罪については、年に一度、大祭司が至聖所に行って、全ての民の為に、

生け贄をささげることによって、贖ってもらう必要があったのです。ところが、そのような中に

あって、イエス・キリストは天的な大祭司としてこの地上に来てくださり、御自身の命を

生け贄としてささげ、私たちのすべての罪の贖いをしてくださいました。それは、私たちが知らずに

犯した罪と、自覚しているすべての罪を含めてです。ということは、過去の違反についての贖いも、

このイエス様によって
完全になされたということです。ですから、この大祭司であるイエス・

キリストの贖いを信じるすべての者は律法から解かれ、「これからは、イエス様だけに心を

集中させて行きなさい」と語られているのです。
ところが、ガラテヤ書5:4を見ますと、「律法に

よって義と認められようとしているあなた方は、キリストから関係が切られ、恵みから落ちて

しまったのです」とあるように、私たちはイエス様によって律法から解放されたはずなのに、

再び律法の中に入り込んでしまったのです。これは、ユダヤ人だけではなく、私たち異邦人にも

当てはまることです。


(転) では、私たちが再び律法の中に入り込んでしまった原因はどこにあるのでしょうか。

それは、
「イエス様を信じて救われたら、正しい人間に変わって行くのだ」と勘違いしていた

ところにあります。私たちは、イエス様を信じた瞬間は、「これからはイエス様に集中して行こう。

もう自分のことなんてどうでもいい」と、純粋に思えたはずです。ところがそのあと、救われたのに

全然変わって行かない自分自身の現実を見て、「このままだったらだめだ。聖書に書いてあるような

聖い人間になるために、自分はもっと努力して行くべきだ」と思い、律法的な方向に向かって

行ったのです。しかし、その考えは間違っています。
救いというのは、「罪人が天国に行くか、

地獄に行くか」
という裁きに関することであり、私たちが死んだあとに実現するものです

この地上にあって、罪を犯さない正しい人間になれるとか、自分の醜い性格が変えられるという

ものではありません。だから、生まれながらに罪人であった私たちが、イエス様の贖いを信じたから

といって、この地上にあって義人になるということはあり得ません。それなのに、「自分は罪人で

ある」という意識を失い、「このままではいけない」と言って、自分の行いに頼ってやって行こうと

する者は、イエス様との関係が切れてしまいます。もし、自分の行いによって何とかできる力が

私たちにあったなら、イエス様がこの地上に来てくださる必要はなかったからです。


(結) ですから、今私たちが持つべき心は、「こんな醜い罪人である私を救って下さって本当に

ありがとうございます」という、へりくだりの心だけです
。確かに、「聖書に書いてあるような

人間になりたい」という願いは誰でも持つでしょう。しかし、あくまでも救いというのは、「地獄に

行くはずであった醜い罪人が、死んだあと、イエス様の贖いの故に天国に入れていただける」

というものであることを覚えてください。私たちは、生まれてから今に至るまで、散々罪を犯し

続けてきた人間です。その生まれながらの性質が完全に消されるということは、この地上で生きて

いる限りあり得ません。だから、
今現在の私たちが最低限すべきことは、「自分はどこまで行っても

罪人だ」という事実を、棚に上げずに認め続けて行くことです
。そして、もし自分が悪いことを

したのなら、「ごめんなさい」と正直に謝って、その責任を取って行くことです。今はそれ以上の

ことは求められていません。「砕かれた悔いし心」というのは、その部分を言われているので

あって、「罪を犯したら終わりだ。正しい人間になれないとパラダイスには入れてもらえない」と

言われているのではありません。まずは、一人一人が罪人のために来て下さったイエス様を信じ

仰ぎましょう。そして、私たちはどこまでいっても罪人で、自分の力に頼ることはできないの

ですから、罪の贖いをして下さった大祭司であるイエス・キリストに信頼し、心を集中させて

行こうではありませんか。

 

 


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